蔵六ブログ
2022.09.20
山梨の印章業の歴史 戦後の歩み
昭和二十年八月十五日、うら盂蘭盆の最中に悪夢であった太平洋戦争は終結し、わが国の平和と平安が刻まれた一瞬であった。しかし建国以来初めての経験であり、日本全土が将来への不透明な不安の交錯していたときである。県都甲府市は同年七月六日の大空襲により廃墟と化してしまった。わが国民は優秀で、その努力によってこん渾然として復旧に立ち向かったのである。『狐と狸』(熊王徳平・増穂町)の行商販売の根性は映画化により、日本国中に甲州商人のたくましさが披歴された。
印章業界も早々に復活した。終戰から昭和二十四年の四年間は軍隊からの復員や軍需工場などから故郷への引き揚げが続き、戰後の復旧に当たり、特にGHQの方針により交通網の復旧は早く主幹鉄道は全面的に開通され、民生も安定し、行政も遅滞なく行き届いてくると、ハンコの需要が盛んになり、戦前のベテラン印章関係業者がまず復職し、就業につく仕事が少ない時代であったので簡単に印章の行商人となったものが急増していった時代であった。
昭和二十年十一月には、甲府市中央一丁目岡島百貨店正面(旧常磐町)に戦前より盛大に印材の問屋業を営んでいた山梨国産商会(七沢斉宮)が戦後第一号の印材問屋を再建開業した。
印章業の小売店舗も戦後三年間には諸所に散見されるようになり、出張販売業(行商)に職を求め全国へハンコの販売に出かける人々が加速的に増加していった。峡南地方を主として甲府市・中巨摩郡・北巨摩郡とほぼ全権かに拡大してその数は二千人とも三千人ともいわれた時代である。それに平行して彫刻業者も、復旧するものが自然に増え、六郷町を中心として甲府市・市川大門町などを中心としてこれまた三百人とも五百人ともいう人々が彫刻所を開業して需要にこたえていくように増大していった。
印判用品の卸業者も、昭和二十一年になると柳屋印材店(六郷町)・望月貢商店(六郷町)遠藤商会(甲府市)、二十二年には鈴木屋(六郷町)・原田晶光堂(六郷町)・一瀬印材店(甲府市)・堂月晶平堂(市川大門)・甲産商会(甲府市)・二十三年には大森印材店(甲府市)・渡辺正玉堂(六郷町)・二十四年にはモテギ(甲府市)、二十五年には河西印材店(甲府市)と世年間に十三社の問屋の開業を見るようになった。これらの卸業者により昭和二十五年四月、山梨県印判用品卸商業組合が設立された。このような状況下に小売業者と彫刻業者の態勢も整い三社一体となって伝統の山梨の印章は継承され飛躍発展して言った。
終戦直後の主たる印材は水晶、メノーであったが、山梨県特有の研磨技術を生かし、虎目石・砂金石・紫水晶・ヒスイ・ジャモン・ジャスパー・九雀石と印材として彫刻できる石材はすべてその販路に登場した時代である。木製印材はつげ柘植の産出が少ないため、桑の木・梨の木の印材も使用され、特に多かったのは椿材であった。二十三年ごろより本格的に日本柘植(本柘植という)が伊豆七島の御蔵島や、九州鹿児島県より薩摩柘植の良材が市場へ出回り木製印材の主流となっていった。
経済の発展と行政事情が多様になり、ますますハンコは必要性をました時代であり、昭和二十六年ごろになるとシャム柘植(タイ国産材)が輸入されるようになり、印章界は潤沢となり、大いに発展した。その他の印材に紅木があり、黒檀・紫檀なども高級木製印材として加工され販路にのるようになった。
主力であった水牛材は、関西方面が印材の産地で水牛材の輸入は戦前より肥料としての入荷であった。また船舶の底積み用として荷物の湿気防止のためにも利用され、印西店として輸入したものではないので安価に入手できたのである。これらは戦後直ちに山梨へ入荷され、特にビルマ産の水牛材が良質の印材として使われたようである。このころ大阪府松原市に製造業者は集まっていた。
象牙は江戸時代より輸入され、特に細工品としてこの時代には日本の繊細な手工芸品として明治・大正・昭和・と三味線のばち撥・ピアノ・その他の楽器や装飾品に多く利用されていたのであるが、印材としても利用されていたようであるが高価ということでほとんど見ることができなかった。戦後アメリカの進駐軍が日本の象牙装飾の細工を見て感心し、大阪の北商事を象牙取扱指定業者とし、二十六年には東京の北川象牙店も指定認可され全国のPXに象牙細工製品を納入したのが象牙の輸入の始まりである。
国内では国内有材や、加工業者は全国をめぐりビリヤードの玉(象牙)を求めて印材を作っていたのであるが、量も少ないので寸法は寸五丈が最長で、寸二丈が主力であった。水牛材への先次として二寸丈を市場に出していた。
象牙が自由に輸入されるようになったのは昭和三十年頃だとしているが、昭和六十二年には世界の五十パーセントがわが国へ輸出され、その七十パーセントが印材に加工されたということである。
昭和三十七年に入り、印相印鑑(別述参考)の販売方式が象牙印を主軸として商をしたため、象牙の輸入を押し上げたので、ワシントン条約問題は日本をターゲットとして業界に大きな波紋をなげかけることになった。
彫刻技術を生かして各種の標札は建築ブームと相まって、桜、桧、一位、欅等や各種大理石への彫刻標札が盛んに販売され戦前の印章王国山梨の名声を再現していったのである。しかし、平成三年、バブルの崩壊によりその波が業界にも押し寄せ、業績は低迷状態である。