蔵六ブログ

2023.01.19

水晶山開発の奨励

 水晶山開発の奨励
明治二年(一八六九)に新政府は、わが国の近代化を進めるにあたり、積極的に殖産興業に力を入れた。第一に地下資源の開発に目をむけることになり、同年二月、民間に鉱山開発を許可し試掘と売買を奨励した。水晶は幕末まで原石の採掘は許されず、かぎられた市場に出る製品は僅少であったが、新政府は試掘にあたって手当金の貸付までするようになった。
(一)御入用ノ儀ハ千両ニテモ弐千両ニテモ申出候ハハ御下ヶ相成候事
水晶山を開発するための資金を必要とするならば、申し出次第、千両でも二千両でもぐに下げ渡すという新政府の方針がうかがわれ、水晶抗之開発を刺激し、促進したことは言うまでもない。
明治三年には白須・大ヶ原村(白州町)横手村(白州町駒城)などから甲斐駒ケ岳の試掘の跡請があり、丹波山村(北都留郡)からも村内の泉水渓というところに水晶抗が見えたといい、新規百日間の試掘の願いが出されている。(『山梨県史』)
『甲斐国志』などに記載されている県内の水晶産地は前記の通りであるが、明治後も繁栄した山は金峰山周辺の水晶峠・倉沢山・向山・押出山・竹森山などであった。このほかに乙女鉱山(牧丘町)、八幡山(須玉町)、川端下(長野県・川上村)、市ノ瀬山(塩山市)、刑部平(同)、泉水渓(丹波山村)、船越(同)、鳳凰山麓獅子ノ木(武川)、駒ヶ岳(白州町)などの産地の名も上げられている。
しかし丹波山村では、明治三年(一八七〇)十二月から同四年三月まで試掘し、二回目を同年五月から八月まで。同四年十月から翌年正月まで三月にわたり較百日間ずつ延長承認で試掘したがついに水晶の生産は十分得ることなく終わっている。次々と大金を投入し、水晶山に対する投資は依然として盛んであったと『水晶宝飾史』に記されているが新規採掘は思うような成果を上げられなかったといわれている。
金峰山をめぐる各水晶鉱山の採掘最盛期には、御岳金桜神社の社領の住民たちは、米と味噌を背負って鉱山に分け入り、食料の続く限り幾日でも水晶の鉱筋を探し回った。幸いに一かま掘り当てれば連絡によって御岳や甲府から水晶の仲買人が集まり、市が立つほどで、これを目当てに臨時の飲食店や甲府から芸妓までが山に登ってきて大騒ぎの御岳にかわったといわれている。
乙女鉱山は、東山梨郡西保町(牧丘町)字北奥仙丈字倉沢。西山梨郡千代田村(甲府市)、および中巨摩郡宮本村黒平(甲府市)にわたる最も広大な水晶鉱山で、古来白色透明な良質の水晶を多く産出した鉱山であった。ことに透明な傾軸式双晶(写真参照)は、世界無比のものとして海外からも注目された。珍しい良品質の原石が産出されたので往来もはげしく奥山にしてはにぎわいをみせたという。
山梨県以外の国内水晶原石の主産地
(1)滋賀県の田の上山坑、苗木抗より煙水晶
(2)宮城県の小原抗より紫水晶
(3)鳥取県の藤屋抗より紫水晶
(4)福岡県の合戸抗より紅水晶
(5)秋田県の荒川鉱山より冠水晶
(6)新潟県の相川鉱山より水入水晶
等が主な産地として知られるところであるが、いずれも明治四十二年(一九〇九)から大正六年(一九一七)ごろにはほとんど採石はなく約十五年くらいで掘りつくされたという。大正になって山梨県も外国産の水晶を輸入しその需要に当てるようになった。

2023.01.05

山梨の水晶産地

 山梨の水晶産地
甲斐の水晶といえば、連想されるのが金峰山であろう。山梨の水晶産地は主に金峰山を中心とする関東山地と証する地域に集中している。甲府市北部から遠く武・信・上の三州にわたる広大な地域を占め、その最高点は金峰山(二五九五メートル)で朝日岳、甲武信岳等の二五〇〇メートル以上の高峰によって信・武と境をなし、笠取山から南走して甲府盆地の塩山に終わる支脈で国師岳から南西走して甲府市に終わる支脈。この間の谷間は笛吹川、金峰山より南西走するものは、茅ヶ岳とその裾野の竜王で終わる。この脈間に荒川を画し、御岳昇仙峡の絶景をつくり、花崗岩風景をあらわ露す。
金峰山より主脈は西走して横尾山に至り、一支脈の西南に派出するものがある。前支脈との間に塩川を涵養する。このように金峰山を中心にして集中しているのであり中でも甲府市黒平の向山坑から東山梨郡牧丘町の倉沢抗(乙女鉱山)、須玉町比志の押し出し抗は古くから透明良質の水晶を多く産出している。
金峰山麓での水晶の発見は天正三年(一五七五)で、今より約四百年前のことで、ちょうど武田勝頼が三河の設楽原(しだらがはら)で織田、徳川の連合軍に大敗した年であり、武田家滅亡の第一歩を踏み出したいわゆる長篠の戦いのあった年である。
伝承によれば水晶を発見したのは険しい山道を金峰山奥宮(甲府市の金桜神社は里宮)へ登山した行者だといわれているが、これを裏付ける資料はないが、甲州水晶の産地は金峰山を中心とする一帯地域で、金峰山には各所に露出した水晶が見られたであろうと文献に記述されている。
『甲斐国志』には、水晶は水精とあり、要するに書く水晶産地の山岳地帯を源流とする各河川の流水の流水が、あたかも清くすんだ透明の水晶からにじみ出た水の精のようであったことから「水精」としたものと思われる。
天正年間の織豊時代は、水晶採掘の制限はなかったと思われるので、自由に採掘しそのままきれいな石として珍重されたものといわれている。水晶の採掘が禁止されたのははっきりしないが、『銀山旧記』によれば、戦国時代には金銀の鉱山をめぐり豪族間に猛烈な争奪戦が行われたので、秀吉がこれを防ぐために鉱山奉行をおいて各地の鉱山を治め、財力をたくわえ、金張りの秀吉といわれるようになった。天下を掌握した家康もこれにならって金山奉行を設け、各地方の主要鉱山を直轄地としたことは有名である。
徳川家の金山奉行の大久保長安は、もともと武田家に仕え、武田家の財力に金山の採掘を開発して天下の武田と名を挙げたのも、大久保長安の鉱山技術であったからである。信玄によって開発された早川入りの保や、黒川千軒とうたわれた黒川金山(塩山市旧神金村)は有名であるが、黒川金山は真っ先に幕府直轄となって管理され、すべての山が幕府の方針によって、採掘や使用は一切禁止されたのである。
災害や自然崩落等により露出した水晶鉱石は幕府に届け出て後に払い下げられたようであるが、金峰山で発見された水晶が、これが最初であるという。 金桜神社の宮司のお話によると、金峰山の山頂に奥宮があり、医薬、禁厭(災難よけ)の守護神として、すくなひこのみこと少彦名命が鎮座され(二千年前)本宮となし、千五百年前に金峰山より御祭神を御岳に遷祀して里宮とし、数千年前より日本国中にその名を知られ、里宮から置く宮へと山岳信仰の盛んな江戸時代には特に行者の登山が多く、金峰山の水晶は、行者によって発見されたことは前述のとおりである。
金桜神社の社宝、火の玉・水の玉は有名である。「火の玉」は径一寸三分、径一寸の茶色透明の二個で、「水の玉」は径一寸強、径一寸、径五分の白色透明の三個で、あわせて五個の銘玉であるが、拝見させて頂けなかった。この玉は京都の玉造りに加工させたという。年代はつまびらかでない。
金桜神社から清川筋へ出る左折れの小さな峠の下り道がある。三十五年ほど前は土道で、水晶の破片が所せましと敷き詰めたように散乱していたのを思い出したが、今は全面舗装となってその面影はなかった。甲府方面へ水晶を搬出した主幹道であったと思われる。
甲府市黒平町上黒平の長老を訪ね、水晶の話を聞くことができた。その人は水晶研究科の藤原育弥さん(八十二歳)で明治時代より亡父が水晶原石の採掘を専業としており、大正時代に入り、父子で採掘の仕事をしていたという。「御岳千軒」という昔からの言い伝えについて藤原さんは、金峰山は古くより日本の三代御獄信仰霊場であり、多くの信者の登山があった。一五七八年(天正六年)金峰山から水晶が発見され、採掘工、加工職人、運搬人、それらを商う商人と人の交流が盛んになるにしたがい、日用品販売の商店、食堂、旅館、土産品店が軒を並べ、往来は盛大を極め、一時御岳町の沢沿いに千軒くらいの集落があったといわれているという。
黒平の水晶抗は、藤原さんの家の正面で南の山、県有林にある向山抗は、前述した鉱山を目前に見ることが出来た。しかし歩くと二時間はかかるという。明治四十年まで盛んに採掘されていたが、明治四十年前後の台風、水害による崩壊がいちじるしく採掘中止の状態となった。それ以後は先代とぼつぼつ、昭和二十年の終戦まで掘っていたが閉山したという。
向山抗(甲府市黒平町)の水晶の原石は、長さ三尺(約九〇センチ)のものが最大というが、これについては面白い話をきくことができた。採掘方法はたて穴式で、大穴方式といい、井戸彫りのように約一〇〇尺(約三〇メートル)もたてに掘り下げるため、鉱山を引き上げるのに村民が総出動して作業に従事したので別名村堀りといっていたそうである。
そのために三尺(約九〇センチ)以上の原石は危険なために穴の中に残して置いたそうである。採掘すると大きな原石のみがごろごろしているというのである。そこは今、水源凾養のため山地の崩壊の危険により手はつけられないままであるという。

2022.10.18

SDGsへの取り組み

 

SGDへの取り組みを開始いたしました。

モテギのアシストインは、皆様の地域に直接接する小売部門ですが、業界あげてSGDsに取り組むべく行動も開始いたしました。

まず、全国のハンコ屋さんにSDGsに取り組むように呼びかけを始めました。

 

■さて、ハンコの材料を印材と言います。いろいろな材質の印材が作られていますが、薩摩本柘植は循環型社会に一番適合している印材です。

薩摩柘植の苗木はさし木から始まり、5年~10年後に一坪に1本移植し、40年から50年で成木になります。

現在、印材用に地球上で唯一植林され、繰り返し生産されている貴重な資源です。

フシや傷はカラーコーテングされロスを極力減らす工夫もしております。

元々、江戸時代に島津斉昭公の頃、産業振興として、古柘に改良を加え、櫛の材料に使われました。

適当に硬く、粘りがあり、変形や割れを生じない、油に良くなじむなど、数々の優れた特徴を持っています。

15ミリ丸の実印サイズで、彫刻技術により価格は変わりますが、11000円より23000円にて承っております。

ハンココンシェルジュの私にご相談ください。

2022.10.15

山梨水晶の始まり


東山梨郡牧丘西保地内および塩山市荻原重郎原地内で発見された縄文式、石器時代前期および中期遺跡(約三千~五千年前)の遺跡跡から水晶石鏃(やじり)、およびその材料となったと思われる水晶の原石が発見されたと文献にある。水晶石鏃の発見によりこのことは水晶が人間生活と交渉をもった最古の実証であるとともに、山梨県内における水晶加工の第一号ではないかといわれている。
石鏃というのは、石で作った弓用のやじりのことで、縄文式石器の一つであり、獲物をねらって弓を射る矢の先に付ける刃を水晶で作ったというものである。
江戸時代に山野に散らばっているこの石鏃を見た人々はその用途はさっぱりわからなかった。『甲斐国志』にこれを落星石(ほしのくそ)と書いてあるほどである。ほとんど石鏃は黒曜石で作られ、広い範囲で使用されており、関東地方では伊豆と信州の黒曜石が有名であり、県内の発掘遺物は信州和田峠産のものといわれている。そうした中にあって山梨県で水晶の石鏃が用いられたことは石器時代から水晶産地としてのお国柄をひょうすものであったということができ、水晶の発見も加工も先史時代までさかのぼることは明らかである。
水晶工房の発見はわが国で今までは二~三世紀の鳥取県大栄町の西高江遺跡で発見されたものが最も古いといわれてきたが、平成四年に京都府弥生町(丹後半島奈具岡遺跡・弥生時代中期・一世紀・玉づくりの大きな工房跡が二十棟のたて穴式住居跡で発掘されてあきらかになり、日本最古の水晶工房跡と発表された。平成四年九月)山梨県内でこうした水晶発掘の背景には、少なくともその周辺に水晶の産地がなければならないはずである。水晶原石が初めて発見されたのは約一千百年前ではないかと考えられるのが通説となっている。
塩山市竹森にある郷社玉諸神社の御神体は巨大な水晶の天然石である。『甲斐古社史考』によれば、同社は延喜式神名帳に記載されており、それは「延喜式」の編纂当時に官幣、もしくは国幣社になっていたことを証するもので、平安時代元慶年間(八七七から八五)のころまでと推定されているので、玉諸神社の「社記」には、天平十八年(七四六)の年号が記載されている。同社記に、「神体(は)者水晶(の)之玉石ナリ 高サ七尺余大サ六尺八寸廻り地中に(かく)隠るること限りを(しらず)不知」とある。明治初年に盗難に遭い今は囲い六十センチ、重さ三十キログラムくらいの透明の水晶原石が祭られている。
前記の式内社と決定された元慶年間からかぞえても一千百年以前から存在したことになるので水晶之御神体もそのころ発見されていたものであろう。(『水晶宝飾史』)
『甲斐国志』は文化十一(一八一四)年に成立した、甲斐国の地誌で、当時の著名な水晶、または石英の産地を記している。それによると金峰水晶瀑布・水晶峠、石水寺山・金子峠(甲府市)、竹森玉宮社中、牛奥通明神(塩山市)、天目山(大和村)、石森村水晶渓(山梨市)、河浦村雷平(三富村)、苗敷山(韮崎市)、浅川村水晶山(高嶺町)などが記されこれらの土地が注目されたことは明らかである。さらに横手山(竹川村)、押出山(須玉町)なども記録に残されている。

2022.09.20

山梨の印章業の歴史 戦後の歩み

 昭和二十年八月十五日、うら盂蘭盆の最中に悪夢であった太平洋戦争は終結し、わが国の平和と平安が刻まれた一瞬であった。しかし建国以来初めての経験であり、日本全土が将来への不透明な不安の交錯していたときである。県都甲府市は同年七月六日の大空襲により廃墟と化してしまった。わが国民は優秀で、その努力によってこん渾然として復旧に立ち向かったのである。『狐と狸』(熊王徳平・増穂町)の行商販売の根性は映画化により、日本国中に甲州商人のたくましさが披歴された。
印章業界も早々に復活した。終戰から昭和二十四年の四年間は軍隊からの復員や軍需工場などから故郷への引き揚げが続き、戰後の復旧に当たり、特にGHQの方針により交通網の復旧は早く主幹鉄道は全面的に開通され、民生も安定し、行政も遅滞なく行き届いてくると、ハンコの需要が盛んになり、戦前のベテラン印章関係業者がまず復職し、就業につく仕事が少ない時代であったので簡単に印章の行商人となったものが急増していった時代であった。
昭和二十年十一月には、甲府市中央一丁目岡島百貨店正面(旧常磐町)に戦前より盛大に印材の問屋業を営んでいた山梨国産商会(七沢斉宮)が戦後第一号の印材問屋を再建開業した。
印章業の小売店舗も戦後三年間には諸所に散見されるようになり、出張販売業(行商)に職を求め全国へハンコの販売に出かける人々が加速的に増加していった。峡南地方を主として甲府市・中巨摩郡・北巨摩郡とほぼ全権かに拡大してその数は二千人とも三千人ともいわれた時代である。それに平行して彫刻業者も、復旧するものが自然に増え、六郷町を中心として甲府市・市川大門町などを中心としてこれまた三百人とも五百人ともいう人々が彫刻所を開業して需要にこたえていくように増大していった。
印判用品の卸業者も、昭和二十一年になると柳屋印材店(六郷町)・望月貢商店(六郷町)遠藤商会(甲府市)、二十二年には鈴木屋(六郷町)・原田晶光堂(六郷町)・一瀬印材店(甲府市)・堂月晶平堂(市川大門)・甲産商会(甲府市)・二十三年には大森印材店(甲府市)・渡辺正玉堂(六郷町)・二十四年にはモテギ(甲府市)、二十五年には河西印材店(甲府市)と世年間に十三社の問屋の開業を見るようになった。これらの卸業者により昭和二十五年四月、山梨県印判用品卸商業組合が設立された。このような状況下に小売業者と彫刻業者の態勢も整い三社一体となって伝統の山梨の印章は継承され飛躍発展して言った。
終戦直後の主たる印材は水晶、メノーであったが、山梨県特有の研磨技術を生かし、虎目石・砂金石・紫水晶・ヒスイ・ジャモン・ジャスパー・九雀石と印材として彫刻できる石材はすべてその販路に登場した時代である。木製印材はつげ柘植の産出が少ないため、桑の木・梨の木の印材も使用され、特に多かったのは椿材であった。二十三年ごろより本格的に日本柘植(本柘植という)が伊豆七島の御蔵島や、九州鹿児島県より薩摩柘植の良材が市場へ出回り木製印材の主流となっていった。
経済の発展と行政事情が多様になり、ますますハンコは必要性をました時代であり、昭和二十六年ごろになるとシャム柘植(タイ国産材)が輸入されるようになり、印章界は潤沢となり、大いに発展した。その他の印材に紅木があり、黒檀・紫檀なども高級木製印材として加工され販路にのるようになった。
主力であった水牛材は、関西方面が印材の産地で水牛材の輸入は戦前より肥料としての入荷であった。また船舶の底積み用として荷物の湿気防止のためにも利用され、印西店として輸入したものではないので安価に入手できたのである。これらは戦後直ちに山梨へ入荷され、特にビルマ産の水牛材が良質の印材として使われたようである。このころ大阪府松原市に製造業者は集まっていた。
象牙は江戸時代より輸入され、特に細工品としてこの時代には日本の繊細な手工芸品として明治・大正・昭和・と三味線のばち撥・ピアノ・その他の楽器や装飾品に多く利用されていたのであるが、印材としても利用されていたようであるが高価ということでほとんど見ることができなかった。戦後アメリカの進駐軍が日本の象牙装飾の細工を見て感心し、大阪の北商事を象牙取扱指定業者とし、二十六年には東京の北川象牙店も指定認可され全国のPXに象牙細工製品を納入したのが象牙の輸入の始まりである。
国内では国内有材や、加工業者は全国をめぐりビリヤードの玉(象牙)を求めて印材を作っていたのであるが、量も少ないので寸法は寸五丈が最長で、寸二丈が主力であった。水牛材への先次として二寸丈を市場に出していた。
象牙が自由に輸入されるようになったのは昭和三十年頃だとしているが、昭和六十二年には世界の五十パーセントがわが国へ輸出され、その七十パーセントが印材に加工されたということである。
昭和三十七年に入り、印相印鑑(別述参考)の販売方式が象牙印を主軸として商をしたため、象牙の輸入を押し上げたので、ワシントン条約問題は日本をターゲットとして業界に大きな波紋をなげかけることになった。
彫刻技術を生かして各種の標札は建築ブームと相まって、桜、桧、一位、欅等や各種大理石への彫刻標札が盛んに販売され戦前の印章王国山梨の名声を再現していったのである。しかし、平成三年、バブルの崩壊によりその波が業界にも押し寄せ、業績は低迷状態である。

2022.09.20

ハンコの基礎知識 押印とは

 

「押印(おういん)」とは、印章(ハンコ)を朱肉につけて、紙の書面にこれを押し付けることにより印影を残すことです。

有斐閣法律用語辞典第4版から、正確な定義を確認しておきましょう。

書類等について、それが作成者自らの意思により作成されたものであることを証するため、又はその作成者の責任を明らかにするために、作成者又は責任者の印を押すこと。かつては捺印(なついん)と言った。

契約書などの文書に押印をすると、その文書の作成者として意思表示をしたことになり、押印者は押印した文書に書かれた意思表示内容に応じて、法的な責任を負うことになります。「押印(おういん)」とは、印章(ハンコ)を朱肉につけて、紙の書面にこれを押し付けることにより印影を残すこと

2022.08.05

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2022.07.28

山梨の印章業の歴史

 v山梨の印章業の沿革
山梨県の印章業は、県内に水晶が産出されるようになった文久年間(一八六一~六三)に水晶印の篆刻からはじまったといわれ、今では印章は全国一を誇る産地といわれている。西八代郡六郷町は「ハンコの町」の愛称で全国に知られ、全国生産量の五〇パーセントをこの町だけで占めていたこともあった。
六郷町を中心とするいわゆる富士川沿岸の峡南地方に発達した印章、印刻の歴史は、明治二十年なかばにさかのぼるが、この地方は古くから山間部に開けた町村が多いので耕地は極めて少なく、江戸時代には旧岩間村を中心として足袋の製造を副業とし、埼玉県の行田市、岡山県のたびの産地と並んで岩間足袋といわれるほどの盛んな地方であった。しかし、明治時代に入ってから機械化による大量生産による製品が多くなり、安く出回るようになると、小規模企業は圧迫され、次第に足袋の業者は姿を消していった。もともと耕地の少ない地方であるから、これに代わる産業をみつけなければ生計が立ち行かないことから登場したのが印章産業であった。
はじめは甲府を中心とした江戸時代からの水晶研磨業と提携して、ここで生産される水晶印を県内各地に行商することに出発点をおき、全国的に販売網を広げ、峡南地方の各町村でも行商をはじめ、太平洋戦争まではその販路は朝鮮・中国・台湾・フィリピンにまで及んでいたのである。
印材の販売は当然印刻業の発展を促すことになり大正時代の末期には足袋産業に変わって全国に印章の産地として日本一の地盤を固めるようになった。山梨県下の印章関係者の印章産業の中心となっているのが六郷町である。
主には印章彫刻業と出商販売であったが、現在は印材製造・印材卸業・通信販売・印章ケース・ケース用金枠業・ゴム印製造業・台木製造・印袋製造・メッキ関連業と印章に関係のある業種はほとんどそろっている。
印材も水晶から象牙・水牛・木・金属・陶器・化学材と多種多様な印材で印章が作られるようになって印刻の工程も主な手刻法でその技術も高度を要求され名工も生んだ山梨県であり、全国に古くより山梨の印刻師は知られるところである。最近の印刻への科学の浸入は著しく、ロボットまで参入しているのが現状である。手刻法は絶対に保持する必要のある技法であることは間違いはないはずである。
これからは伝統産業として、どうして次第に継承しようとするのかが課題で、後継者づくりをめざす「てんこく教室」を開設し、積極的な技術指導と経営者の勉強をすることが業界に必要なこととなっているv

2022.07.12

御爾のはなし

 御爾のはなし
「御爾」は、御印・内印・玉爾ともいった。天皇の印のことをいい「天皇御爾」の四字を刻した印である。律令制では少納言が保管し、諸司・諸国に「符」を下す場合に用いた。これに代わって外印(大政官印)が押された。昔のものは方二寸七分(約八、一センチ)の銅印であった。現行のものは、明治七年(一八七四)の新制の金印で方三寸(約九センチ)となり、大日本国爾(国印)とともに内大臣がこれを保管した。
詔書・親任官・認証官の官記、親授・勅授の位記に用いた。今は侍従職が保管、天皇の国事行為に伴い発せられる証書・法律・政令・条約書・内閣総理大臣の任命書などに用いられている。明治新政府は新しい「天皇御爾」を制定するに当たり、明治三年官内省の役人伊達宗城を清国(中国)に派遣して清国の御爾について調査をさせ、帰国後、東寺わが国の篆刻家の第一人者であった長崎県の小曽根乾堂に「御爾」の製作を下命することに決定した。
ところが、小曽根乾堂は「御爾」の奉刻には無位無官のものでは誠に恐れ多いとして、ねがわくば従五位の位階をあらかじめ下し賜るようにという、誠に虫のよい請願をひそかにその筋へ働きかけた。しかし、そのような腹黒い篆刻家の請願は「聞き届けがたし」と取り下げられ、宮内省は、京都の奏蔵六・阿部井檪堂の両氏に、御爾の奉刻を新たに下命した。奏蔵六は、当時、京都の勧業場御用掛で鋳造家、阿部井檪堂は京都小路に住む篆刻家で印刻店を経営していた。

御爾奉刻の栄に浴した二人は、潔済もく沐浴してひつせい畢生の心力をこめて御爾製作に精進した。

御爾の全材料は純金、重量三貫目(約十二キロ)を使い、檪堂が原印「鋳型」を、蔵六がそれを鋳して完成した。このときに天皇御爾と大日本国爾の二種を製作した。御爾の側面には、「神武天皇紀元二千五百三十四年明治七年甲戌三月奉勅新製黄金爾一雙即西京人安部人奉刀。宮内卿正二位徳大寺実測謹識」と落款が刻してある。この御爾は、いま宮内庁の侍従が保管し、一般人には見ることができない。
せっかく奉刻を下命された小曽根乾堂は、のちに一世一代の失敗をしたと、欲張ったことを深く反省したという。御爾印は今では四方の隅の縁はだいぶ丸くすりへってしまっているといわれている。(昭和五十三年七月、内藤香石先生談)

2022.06.23

朱印と黒印


海外渡航許可状は御朱印状で知られているが、社寺領に対しても御朱印が使われた。十万石未満の大名や旗本の知行についても朱印であった。十万石以上の大名には将軍の書き判(花押)であり、軽微な事項や私的文書には黒印が用いられたといわれている。事項の軽重におうじて書き判、朱印黒印というように使い分けたものと思われる。
明治の新制度 明治六年十月一日以後人民相互の証書に花王を用いることを禁じ、諸証書の姓名は必ず本人が自書して実印を押すべきものと定めたのである。
第一国立銀行では日々何百回と出される当座預金、請取証書、振出手形、為替手形に自書することは困難である旨を上申し、この書類のみ国立銀行では自筆の姓名を彫刻した印を作り、自身でこれを押し、かつ加印すべしとの許可がなされたのみである。このようにして国民等しく印章を用うることになり、この日を記念して、印章記念日とし、業界では毎年、全国で式典やイベントを行っている。

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