蔵六ブログ
2022.10.15
山梨水晶の始まり
東山梨郡牧丘西保地内および塩山市荻原重郎原地内で発見された縄文式、石器時代前期および中期遺跡(約三千~五千年前)の遺跡跡から水晶石鏃(やじり)、およびその材料となったと思われる水晶の原石が発見されたと文献にある。水晶石鏃の発見によりこのことは水晶が人間生活と交渉をもった最古の実証であるとともに、山梨県内における水晶加工の第一号ではないかといわれている。
石鏃というのは、石で作った弓用のやじりのことで、縄文式石器の一つであり、獲物をねらって弓を射る矢の先に付ける刃を水晶で作ったというものである。
江戸時代に山野に散らばっているこの石鏃を見た人々はその用途はさっぱりわからなかった。『甲斐国志』にこれを落星石(ほしのくそ)と書いてあるほどである。ほとんど石鏃は黒曜石で作られ、広い範囲で使用されており、関東地方では伊豆と信州の黒曜石が有名であり、県内の発掘遺物は信州和田峠産のものといわれている。そうした中にあって山梨県で水晶の石鏃が用いられたことは石器時代から水晶産地としてのお国柄をひょうすものであったということができ、水晶の発見も加工も先史時代までさかのぼることは明らかである。
水晶工房の発見はわが国で今までは二~三世紀の鳥取県大栄町の西高江遺跡で発見されたものが最も古いといわれてきたが、平成四年に京都府弥生町(丹後半島奈具岡遺跡・弥生時代中期・一世紀・玉づくりの大きな工房跡が二十棟のたて穴式住居跡で発掘されてあきらかになり、日本最古の水晶工房跡と発表された。平成四年九月)山梨県内でこうした水晶発掘の背景には、少なくともその周辺に水晶の産地がなければならないはずである。水晶原石が初めて発見されたのは約一千百年前ではないかと考えられるのが通説となっている。
塩山市竹森にある郷社玉諸神社の御神体は巨大な水晶の天然石である。『甲斐古社史考』によれば、同社は延喜式神名帳に記載されており、それは「延喜式」の編纂当時に官幣、もしくは国幣社になっていたことを証するもので、平安時代元慶年間(八七七から八五)のころまでと推定されているので、玉諸神社の「社記」には、天平十八年(七四六)の年号が記載されている。同社記に、「神体(は)者水晶(の)之玉石ナリ 高サ七尺余大サ六尺八寸廻り地中に(かく)隠るること限りを(しらず)不知」とある。明治初年に盗難に遭い今は囲い六十センチ、重さ三十キログラムくらいの透明の水晶原石が祭られている。
前記の式内社と決定された元慶年間からかぞえても一千百年以前から存在したことになるので水晶之御神体もそのころ発見されていたものであろう。(『水晶宝飾史』)
『甲斐国志』は文化十一(一八一四)年に成立した、甲斐国の地誌で、当時の著名な水晶、または石英の産地を記している。それによると金峰水晶瀑布・水晶峠、石水寺山・金子峠(甲府市)、竹森玉宮社中、牛奥通明神(塩山市)、天目山(大和村)、石森村水晶渓(山梨市)、河浦村雷平(三富村)、苗敷山(韮崎市)、浅川村水晶山(高嶺町)などが記されこれらの土地が注目されたことは明らかである。さらに横手山(竹川村)、押出山(須玉町)なども記録に残されている。