蔵六ブログ

2023.05.18

水晶の研磨技術と印材加工

 前述のとおり山梨県内の水晶の加工品は、やく三千~五千年前の石器時代の遺跡から水晶石簇が発見されたことにより登場するのであるが、次の弥生時代には全くその姿を見せず、古墳時代(紀元三世紀~八世紀)に至って副葬品の中から装身具となり玉となって発見され登場してくるのである。
山梨県下で水晶原石の発見は、約一千年前ごろとなるのであるが、研磨技術としては水晶のお国柄にふさわしく、昇仙峡の奥、甲武信山脈の金峰山一帯を中心として産出した水晶の原石を使って印章(ハンコ)の研磨は生成発展していくのであるが、研磨工業が発祥して約五百年余ということになり、伝統産業としてほこれるものである。
研磨の初期は手やすり鑢一本の加工であったが、やがて足踏みの回転盤に変わり、電動機研磨時代に入ってきたのである。置物・印材・装身具などの美術工芸品を生産しながら江戸時代から明治、大正、昭和、平成、と研磨技術は発展し現在に至っている。
南北朝時代の建武二年(一三三五)普明国師は、夢窓国師に従って上洛し、鹿王院の開山となるが、しばしば甲州から水晶の原石を取り寄せて京都の玉づくりに数珠を作らせたと『水晶宝飾史』にある。鹿王院の寺宝である水晶の如意宝珠(重要文化財)はみがき磨は最上であり甲州水晶の特徴である、くもりが見られるので甲州産の水晶で作ったことは間違いないという。
とにかく甲斐にゆかりの深い夢窓、普明両国師によって、すでに南北朝時代(一三三〇~一四〇〇)から甲州と京都の水晶による交流があったことが推察されるわけである。
水晶の研磨は、天保年間(一八三〇~一八四〇)に御岳の神官が京都の玉屋弥助の教えを受けた玉造りであるという定説があるが、いずれにしても山梨の水晶加工の技術発展は京都と結ばれていたことに間違いない。
御岳金桜神社社宝の「火の玉・水の玉」も原石は御岳産の水晶であるが、加工の年代も加工の場所も京都の玉屋という以外にはわかっていない。
甲州水晶加工の始祖ともいわれる玉屋弥助は寛政六年(一七九四)京都に生まれた。弥助は文化、天保と水晶原石の購入のため、いく度か甲州へ来ていたという。御岳(甲府市)で研磨加工の技術の指導をしたとも文献に見える。甲州人も御岳に加工工場を開設し、江戸末期には甲府市内に数多くの加工業者も現れ、以来印材の加工も盛んになり、山梨のハンコ(水晶)が有名になったのである。
天保八-九年(一八三七)頃より天保末年の数年間に、御岳の職人によって印材も作られたという。
嘉永七年(一八五四)発行の「甲府市買物独案内」に次の三軒の水晶細工工場の名がみえる。
柳町三丁目 深輪屋甚兵衛・柳町三丁目 土屋宗助・金井町 亀屋彦右衛門
の三業者である。
玉のほかに印材、根附、数珠、玉兎、富士形文鎮などがつくられていたという。
水晶印の篆刻は文久一~三年(一八六一~三)にはじまったといわれている。嘉永名七年(一八五四)に水晶工場を開いた土屋宗助は、岩渕(静岡県)の藤岡屋藤兵衛を代理店として東海地方に活発な取引をしたといわれている。三代目土屋松次郎(号松華)は篆刻を業とし、印判をつくり東海道筋にかけて篆刻の技術を教えて回ったという。
土屋の遠祖は、武田が滅亡した天目山の戦いで、片手千人切りの部名をとどろかせた、勝頼の臣、土屋惣蔵昌恒といい。宗助はそれより幾代か後の子孫であると伝承されている。その宗助が江戸末期に市川大門町より、甲府市の柳町へ移り住み水晶工場を開設した。
明治十一年(一八七八)長田市太郎の嫡男、長田宗善は、篆刻に専念没頭し、篆刻用印刀を作り篆刻が本格的に完成するのは明治二十年代であったといわれている。
明治六年(一八七三)十月一日、太政官令により国民の等しくがハンコを使用することの制度となり、甲州印章の時代の幕開けとなった。明治九年には山梨県(県令藤村紫朗)に勧業試験場が創設され、二年後には水晶加工部を併置し、水晶加工の伝習も行われるようになった。このようにして山梨県の三業物産の名品としてハンコが脚光を浴びるようになった。
明治二十年(一八八七)なかばから河内地方に多くの印章の販売業と篆刻業者が増加するにつれ、山梨県の印章は全国へ販路求め、印章王国山梨となっていったのである。

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