蔵六ブログ
2023.07.25
印章:刻まれてきた歴史と文化・・その4
4.印聖 高芙蓉
山梨は近代国家になってから知られるようになった印章業の聖地である。しかし、それ 以前、江戸中期に「印聖」と呼ばれた篆刻の才人が山梨に誕生した。それが高芙蓉である。
本姓は大島。祖父は水戸光圀に仕えた下級武士であった。彼は土蔵番を務めていた時に盗 難に遭い、甲斐に移った。父尤軒は儒医、芙蓉は医者にならず、京都に遊学して、のちに 儒者となった。
芙蓉が生まれたころ、歌舞伎では「国性爺合戦」が大ヒットした。国姓爺(歌舞伎では国 性爺)は鄭成功のこと。日本生まれで、父は中国、母は日本。幼名を国松と言った。演劇で は和と唐の間の子、主人公「和藤内」が大活躍するストーリーである。 鄭成功は明が清に征服される危機に立ち上がり、「抗清復明」を旗印に抵抗した人、また オランダの支配下にあった台湾を東寧王国として建国、「開台聖王」とあがめられている。
成功は日本に援助を求め儒者の朱舜水を送ったが、かなわず明は滅亡。亡命した朱舜水や 東皐心越、それに黄檗僧が当時の明朝の文化を日本にもたらした。 舜水や心越を徳川光圀は水戸に迎えた。
彼らは『大日本史』の編纂や儒者が弾く古琴の 普及、儒学・漢学を奨励し、林十江、立原杏所ら水戸南画の俊秀に大きく影響した。
明朝の危機は当時はやりの篆刻に及び、日本では近体派と呼ばれる装飾趣味の篆刻が流 行した。高芙蓉はこのような近体派の篆刻がもてはやされたころ京都に遊学した。彼は流 行によらず、弊風を改め、秦漢の古典を範とし、のちに古体派の篆刻を確立した。
江戸の 篆刻を一変させたのである。門人からは多くの俊秀が育ち、芙蓉派といわれた。師風は幕 末から近代へと受け継がれ、明治政府の御璽、国璽はその伝統から生まれたものである。
芙蓉は篆刻だけでなく、本業は儒者で、加賀藩に仕え、晩年には常陸宍戸藩に迎えられ た。また書画にも秀で、文人画の池大雅、書家の韓天寿と生涯の友となり、三人は白山、 立山、富士に登って、「三岳道者」の号を共有した。
彼の交友は広く、画家の柳澤淇園、与 謝蕪村、円山応挙、また伊藤若冲の支援者として知られる禅僧の大典顕常、文人の木村蒹 葭堂、儒者の柴野律山と枚挙に暇なしの感がある。 展覧会では大雅や応挙、林十江、立原杏所の絵画もご覧いただける。なかでも芙蓉が描 いた「山水図」(山梨県立美術館)は画中の為書きから書斎「芙蓉軒南窓」で描き、「池無 名画伯清鑒」と大雅に贈呈した逸品で、画中の楼閣に彼の中国趣味が見事である。