蔵六ブログ

2022.02.17

武田流花押の歴史

 

■武田流花押 武田流花押とは 武田信玄から花押所に任じられた小池和泉守胤貞によって、 甲斐武田家一門のために考案され、確立された花押形体である。 明白な発祥(確立)の由緒と、 小池家の一子相伝による四百五十余年の歴史を持っている 花押流派は、現在、武田流花押だけである。 ほかの花押形体と異なるところは・・・模倣や偽筆防止策を施した自署機能の拡充や形体の美しさばかりではなく、 花押を使う人の運気を高めることや生き方の美しさをも追求している。花押全体に易学を背景とした施術がされている。 ・運気を逃さないために、生まれ歳の干支に拠る「空穴(めど)」を創る。 ・花押を持つ人の生き方を高めるために、花押を構成する線に「八壽線(はちじゅせん)」を創定する。 武田流花押は、自署のためのツールであるとともに、一種の「御護り」でもある。 武田流花押の由緒 小池藤五郎基胤博士の考証によれば、武田流花押のルーツは、武田信玄からさかのぼること 四百年、源義家(八幡太郎)、源義綱(賀茂次郎)、源義光(新羅三郎)の三兄弟が育った河内国の 源家の居住地「香炉峰の館」の典雅な公家様(くげよう)にたどり着く。 ちなみに、河内国古市郡壷井(大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とする源家は、清和源氏の一 流で「河内源氏」という。一般的に、武士で「源氏」という場合、この河内源氏の系統を指す。 義光の三男義清とその子清光が大治 5(1130)年、常陸国武田郷(茨城県ひたちなか市武田)か ら甲斐国巨摩郡市河荘(山梨県西八代郡市川三郷町)に入り、甲斐源氏の始祖となる。 清光の長男(次男とも)信義は、保延 6(1140)年、13 歳のとき甲斐国巨摩郡武田荘(山梨県韮崎 市神山町)の武田八幡宮で元服し、武田太郎信義と名を改め、同地を本管地とし、甲斐武田氏 の始祖(甲斐武田家の初代)となる。爾来、命脈は四百年の星霜を経て、武田家 16 代当主武田 信玄へと続く。 河内国の「香炉峰の館」を出た源家の花押も、甲斐国を包む富士山・鳳凰三山(ほうおうさんざん)・駒 ヶ岳・八ヶ岳・金峰山(きんぷざん)の雄健な稜線と、北巨摩郡内の遊水地帯の複雑な流れなどが、花 押の線となって加わり、平安朝の高雅な形体も薄らいで複雑な展開を見せていた。 そこで、武田信玄は、信玄暗殺未遂事件を契機に花押所(かおうどころ)を制定し、その主宰を小池 和泉守胤貞に命じた。胤貞は、これまでの花押に、模倣・偽筆防止の秘策と一族郎党と共に生き 抜くために易学に基づく術策を加えて、新形体の花押式「武田流花押」を確立させた。 小池和泉守胤貞公 (武田流花押創始者) 小池和泉守胤貞公の甲斐小池氏は、津金郷(山梨県北杜市須玉町津金を所領した津金氏から分出した諸氏の一つで、小池郷(山梨県 北杜市高根町小池)を本管地とする氏族である。ちなみに、津金氏の出自については、甲斐武田氏と兄弟となる甲斐逸見氏(へみし)の一 族とする説(田富町誌)と、常陸佐竹氏の分流だとする説(甲斐国志)があるが、逸見氏と佐竹氏の始祖はどちらも源三郎義光(新羅三郎)な ので、どちらの説を採っても、大きくは義光流の一族である。 津金氏は、戦国時代には、辺境地域武士団「津金衆」として甲斐国巨摩郡逸見筋(釜無川左岸一帯)と信州へ通じる佐久往還の防衛を 担っていた。同じく辺境地域の防衛にあたっている、巨摩郡武川筋(釜無川右岸一帯)の「武川衆」、巨摩郡北山筋の「御岳衆」、八代郡中 郡筋の「九一色衆」らとともに、甲斐武田氏の統属組織の主力を成していた。 小池氏自体は津金衆の一員だったため、武田氏時代の歴史には表立って出てこない。信玄暗殺未遂事件とそれを契機とした花押所拝 命のとき小池和泉守胤貞の名が登場する。そして、武田家滅亡後は、津金衆の頭目として武田家遺臣らの徳川家康への服属に奔走した。 それによって津金一族の存続が図られるとともに、小池氏自体には、従来の巨摩郡小池郷の本領を安堵されたうえに、巨摩郡河原村(山 梨県中央市臼井阿原)が給された。一族も厚遇され、武蔵(埼玉県)や尾張(愛知県)などへ多くの者が士分として発展している。あるいは、 和泉守胤貞のように帰農した者は、定住先の地域で豪農や庄屋として江戸時代を送っている。 小池和泉守胤貞公の花押エピソード 信玄暗殺容疑を花押が晴らす! 永禄 8(1565) 10 月初旬、信玄の嫡男義信と飯富寅昌(おぶとらまさ)らによる信玄暗殺の企てが発覚した。その連判状に、津金衆(つがね しゅう)の頭目小池和泉守胤貞の名前があった。だが、それは他人の手による署名と花押だった。信玄の尋問に対して胤貞は、自身の花押 に講じている模倣や偽筆防止策を説明し、身の潔白を証明した。これを機に、信玄は花押所を制定し、花押に対する高い見識を持ち、こ れまでも武田信虎や信玄らの花押を謹考している胤貞を統括者とした。また、武田流花押形体を確立させ、それに基づく武田家一門の花 押の調製と管理、武田流花押形体を小池家が一子相伝で伝承していくよう下命した。 ちなみに、この信玄暗殺未遂事件により、嫡子だった義信は幽閉後に自害し、二男は夭逝していて、三男龍宝は視覚機能に障害があり 出家していたため、四男勝頼が実質的に嫡子となり、第 17 代当主として武田家を率いることになった。 信玄の遺志は、第 17 代当主は勝頼の子信勝(信玄の孫)とし、勝頼は信勝が 17 歳になるまで陣代(後見人)を務め、その後は出自である 諏訪家を継承させるというものだった。 だが、織田・徳川連合軍による甲斐侵攻、武田家征伐へと情勢が激変してくるなか、勝頼は当主として動かざるを得なくなり、「武田家 最後の当主」として「武田家滅亡」を迎えることとなる。 小池藤五郎基胤博士 (武田流花押第 15 代伝承者) 山梨県北巨摩郡更科村(韮崎市上ノ山)生まれ。生年明治 28(1895) 1 30 日、没年昭和 57(1982) 11 4 日。享年 87。日本近代 文学の研究者。狂歌人でもあった。山東京伝、曲亭馬琴などの読本を専門とし、『南総里見八犬伝』岩波文庫版の校訂者として知られる。 黄表紙研究者の小池正胤は藤五郎博士の子息。 武田流花押の創始者小池和泉守貞胤の末裔で、武田流花押第15代伝承者。実家は富裕な庄屋の家系で、甲斐国のみならず江戸 の文人との交流がある環境だった。曾祖父にあたる小池伝右衛門富章(号は勝山、文雅園)は国学・漢学に通じ、狂歌師として「白水亭亀 丸」の号を持っていた。小池家には『南総里見八犬伝』が肇輯(じょうしゅう)から初版本が揃っており、近郷唯一の『八犬伝』として親戚・知人や 家来筋の人々にも愛読されたというが、明治 31(1898)年、韮崎市の東側を縫うように流れる塩川の長雨による氾濫で書庫と共に流失してし まったという。 昭和 3(1928)年東京帝国大学文科卒業、東京高等学校教授、東洋大学教授、昭和 28(1953)年「徳川時代大衆文学の主軸である赤本、 黒本、青本の研究」で東洋大文学博士。都留文化大学教授、立正大学教授を歴任後、昭和 49(1974)年定年。東京音楽大学教授。

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