蔵六ブログ
2023.10.18
出商販売
出商販売
明治二十年(一八八七)、六郷町鴨狩津向の河西万次郎は、小田原から東海道筋・三重・京都・大阪・四国地方まで出張販売したという記録が河西家に残されている。(『六郷町誌』)
明治三十年(一八九七)前後の岩間足袋産業の崩壊とともに、遠藤常太郎(六郷町岩間)、望月政五郎(同町楠甫)らは、特に大々的に出商による印章販売を行い、売子(勢子ともいう)十数人を連れて水晶石の販売を続けていたという。印章のほか数珠、指輪・置物・印伝袋物等も商品の中に加えていったようである。副業であったハンコの販売がいよいよ専業に変わってゆく時代である。これらの販売員たちは正月と盆の二度・帰宅し、一年中全国を巡り木口印も加わり大分、業績を上げていたようである。
商いの方法としては、ある町で一週間から十日間くらい仮の店舗を設置し地方新聞に折り込み広告を出し出店を需要者に知らせ、店頭から町中に幟りを何本か建て、師から町へと次々と移動し、全国を巡回するという出張販売方式を取っていた。この方法は昭和十五年ごろまで続いたそうである。
2023.10.14
① 判子(ハンコ)文化を護る意味
① 判子(ハンコ)文化を護る意味
本当にハンコは『無用の長物』なのだろうか。河野太郎行革大臣が、行政改革の一つの柱として、行政手続き上の押印廃止を進めたことで、ハンコが悪者扱いされるにいたってしまったことは悲しむべきことであると私は思う。
伝統は、歴史のなかで取捨選択を繰り返してもなお人々によって守られてきたものであり、長い間の風雪に耐えながら蓄積されてきた叡智の結晶ともいえる。
千年以上にわたって用いられてきたハンコ文化を、目先の合理主義によっていとも簡単に廃止しまうことに何の迷いもないというのは、実におそろしいことではあるまいか。
便利でよい文化であるから長年用いられてきたのであり、『ハンコをどのようになくすか』でなく「なぜハンコが長年用いられてきたのか」の問題意識を向けてもらいたいと思う。
ハンコは、テレビなどが煽るように、本当に不便で不要なものなのか考えてみたい。
2023.10.10
通信販売
通信販売
水晶材は宝石に準ずるとあり(『水晶宝飾史』)、郵送することは禁止されていたのであるが、印章業界などの強い要望により、明治二十三年(一八九〇)に郵送が許可されたので、通信販売の道が開かれた。
明治三十四年(一九〇一)七月、甲府市柳町三丁目の国花堂篆刻師山田白峰が、水晶印の通信販売の広告をするとあり、これが最初の宣伝ではないかと思われる。このようにして明治二十年のなかば頃より山梨県下の印章販売は、通信行商と両論によた爆発的な売れ行きとなり篆刻師は販売の実績の向上とともに増加していった。六郷町のいわゆる河内地方では、大正三年(一九一四)落居村(六郷町)の遠藤良一が「甲南水晶商会々報」を発行し、その広告欄を使い印章販売をしたのが最初であるとされている。
昭和六年(一九三一)九月におきた満州事変を契機として、大陸(台湾・朝鮮を含む)に通信販売が進出するようになり、出商販売と共に盛んに行われるようになった。国中地方の通販業者は不明であるが、六郷町には大手の通販業者が設立され国内はもとより、海外への営業を伸ばし大もうけ儲したようである。当時の大手通信販売業者は、
昭和八年 日本水晶(株) 笠井暉一 (旧岩間)
昭和九年 帝国水晶(株) 笠井善三 (旧楠甫)
昭和九年 日満水晶(株) 遠藤政一 (旧落居)
昭和九年 甲州水晶(株) 都築尭春 (旧岩間)
昭和九年 東洋水晶(株) 望月修三 (旧落居)
昭和九年 昭和水晶(株) 鈴木 奏 (旧鴨狩津向)
このほか大小の国内向けの通信業者が多数あった。
山梨水晶(株)米沢良知(下部町)は、昭和初期より通信販売を開業し、噴射篆刻法を開発した。昭和十二年ごろには甲府市桜町(中央四丁目)に篆刻師を多数雇用して生産まで一貫した大々的な会社を設立した。
昭和十六年、太平洋戦争に突入すると、若者は出征・微用に狩り出され、昭和十五年の「奢侈品等製造販売制限規則」の実施等により、印章経営に大きな影響を与えるようになり、昭和十七年「企業整備令」が発令されるなど、戦時色はいっそう深まり業者は自然淘汰のかたちで消滅していった。
2023.10.04
通信販売と
通信販売と出商販売
出商の始まりは明治三十年(一八九七)前後といわれ、通信販売も明治三十六年(一九〇三)にははじまっており、「甲府物産商報」の中にはぶどう酒・ワシなどもいっしょに通販の商品となっている。明治三十六年に国鉄甲府-八王子間が、同三十九年には塩尻まで開通するに当たり出商販売もますます盛んとなり、明治四十年(一九〇七)頃よりハンコ産業の隆盛期が出現するのである。
2023.09.27
山梨県の印章業の発展
山梨県印章業の発展
前述の通り印章王国山梨は、水晶研磨技術の発展と平行して著しく伸展するのである。明治二年(一八六九)国内の水晶原石の採掘が自由になると、同六年に着任した藤村紫朗県令(県知事)は殖産工業発展のため、同九年六月、甲府城跡に県立勧業試験場を創設し、推奨加工場併設。業界の発展に尽力した。受講生の一人、市川大門町の長田市太郎は成績優秀のため、研磨技術の先進国である清国(中国)へ半年間派遣され先進地の技術を習得し、明治十一年長田氏は家族とともに甲府へ移り、清国伝習水晶細工所を創設した。と文献にある。
明治初期より明治二十四年に至る間は印章店を明らかにする資料は少ない。その中で甲府市の南陽堂田草川印房が、同家の家計によって明らかになった。それによると創業は明治十年と記され、甲府市中央四丁目(旧柳町)の田草川印房の現当主田草川恵一は、その三代目である。
明治十八年(一八八五)出版の『山梨県甲府各家商業便覧』には、金、銀、水晶、版木、御印判師谷村貞七(号幽蘭)がただ一人掲載されている。
明治二十四年発行の『甲府市内商業評判』の中に、柳町一丁目・土屋松次郎、柳町二丁目田中清次郎の二名が出ているだけであるが、明治二十七年(一八九一)発行の広告「山梨繁昌明細記」には次の業者が連載されている。
甲府、柳町 南陽堂 八日町 玉潤堂 柳町 清玉堂 三日町 玉泉堂 寿町 精美堂 桜町 土屋宗幸 柳町 含章堂 柳町 玉曜堂 柳町 土屋友次郎 柳町 丹沢駒次郎 郡部・富里村 佐野加久太郎・西島村 修竹堂 身延町 三桝屋 五開村 望月儀助
右十四の印章業者が記載されている。
この明治二十七年の山梨繁昌明細記の中に掲載されている広告欄には、他の四‐五倍ぐらいのスペースをとり南陽堂田草川印房(店主田草川徳次郎)が大きく宣伝している。広告では、徳次郎は清国人から篆刻の刀法技術を修得し、金・銀・銅・鉄・玉石などの印材を使いお客さんの要望にこたえます。また、甲州産の水晶は緻密精工で他に真似の出来ないような彫刻をしますので倍旧の御用を仰せつけられたい。と宣伝している。また、「創設明治十年」とみえるので、この業界では最も古い印章店ではないかと思われる。
「広告」
創業明治十年 甲府市柳町
南陽銅 田草川徳次郎
○ 篆刻師
茅堂義、従来寅刻斯業に勉勵罷在候所、江湖諸氏ノ御愛顧ヲ蒙栄候段感謝ノ至リニ堪ヘス、爾後猶斬道ニ刻苦黽勉曽テ清国人ニ就キ親ク学ヒ得タル刀法ヲ以ッテ、金銀・銅・鐵・玉石等総テ御下命ニ隋ヒ、彫刻仕ルヘク候、就中等国産水晶ノ如キハ最モ緻密精工風韻雅致ヲ旨トシ、他人ノ模擬シ能ハサル様彫進仕候間、冀クハ倍旧御用向仰付ラレン?ヲ謹告。
(明治二十七年・『山梨繁晶明細記』より)
難解な字句を並べた広告文は、その時代を知る貴重な資料である。また、この『山梨繁昌明細記』の末尾に、日本橋大伝馬町三丁目刻師芦野楠山(本県出身の篆刻の大家)の名前が記されている。
これらの各種刊行物や、その他の広告、折込を利用した宣伝販売が国内にもぼつぼつ始まった時代と推測される。
このころ博覧会や共進会への作品の出品参加もあり、約束郵便による通信販売業も出現し、行商販売と、これらの努力により山梨のハンコは全国へ浸透普及していった。
県外の印章店も盛んに宣伝するようになった。大正時代の広告の一部を記載する。これは千葉県のもので広告のスローガンが面白い。
(1)大発展の広告活眼を開き活文を見たまふべし
(2)首とつり替の元素諸君必ず熟読したまふべし
(3)文意貫徹せば手の舞ひ足の踏むをしらざるべし
と三つのスローガンが購買力をかりたてている。
「大発展の広告活眼を開き活文を見たまふべし」
大正三年
出張営業所開設広告 祥雲堂謹白
月
出張営業所開設広告 祥雲堂謹白
◎幣舗印刻、業明治十八年中開店以来其我ヲ選ビ其裂ヲ精ウシ且ツ其成工ノ期日ヲ愆ラザルトニ因リ諸彦ノ愛顧ヲ辱ラシ陸続貴囑ヲ蒙ルニ至ル然ルニ遠隔ノ地ヨリ御注文ノ節態々御来臨ニナルモ事故アリテ即時ノ後需要ニ應ジ兼候事往々コレアリ實ニ幣家ノ常ニ憾ミトスル所ナリ因テ今回鶴舞町ニ於テ毎月一六ノ日出張営業致シ諸君ノ便宜ヲ謀ラントス請フ遠近ノ貴客倍舊ノ光顧ヲ垂レタマヒ陸続御注文アランコトヲ希望ス
○方今本朝古印體ナルモノ盛ニ行ハレ官私共ニ之ヲ称用ス然レドモ作家多クハ古印ノ典型ヲ講究セズシテ従ラニ変怪ハカリカタキ漫?ノ迹ヲ?シテ以テ古體を得タリスルハ豈概嘆ニ堪エザランヤ今ニシテ之レヲ矯正セズンバ終ニ俗戯ニ墜チントス弊堂斯ニ感アリ因テ木朝古印體ナルモノヲ?して華客ノ展覧ニ供ス
○仰印章ノ要タルヤ精確ナラザレバ信用ヲ示スノ具トナスニ足ラズ今ヤ我邦萬般ノ技芸日ニ將ニ美術の聲月ニ盛ニシテ朝野ヲ論ゼズ貴賤共に高尚優美ノ風ニ做ヘリ誰カ拙刻?悪ノ印章ヲ用ユル?ヲ欲セザラン夫レ實印ハ財産保護ノ要具ニシテ苟モ家産ヲ有スル者ニハ最貴重ナル必需品ナリ然ルヲ六書ノ義ヲ解セズ篆法章法刀法ヲ?ゼザル庸工ノ手ニ一任シ設令ヒ誤字錯篆アルモ恬トシテ顧ミザルハ豈浩嘆ニ耐ユベケンヤ是レ實印ノ貴重ナル所以ヲ解セザルナリ江湖ノ君子實印ノ貴重スヘキ所以ヲ諒ニセヨ
印譜例(略)
受堂例(略)
○御注文ノ節物品代金ノ半額以上申受候事
弊堂ノ製品ハ他店ヨリハ高価ナレドモ彫刻ノ美ハ勿論誓テ華客ニ満足ヲ呈セン?ヲ期ス
以下略
祥雲堂印房 篆刻士 阿部芳蔵
広 告(明治三十四年七月発行の「峡中文学」第七号の誌上)
国産水晶印美術彫刻
風雅精巧高尚優美真に美術の名に恥ざらんことを期す
字体 篆隷楷行草及古印体の? 御望次第
刻科 壱文字に付金三拾銭以上金壱円以下御望次第
注文 前金又は代金引換小包なれば見積金の半額を前払とす
印材 一個に付き認印金三拾銭以上金壱円まで
実印金五拾銭以上金弐円まで
為替 は甲府局払渡の事
弊堂は明治維新前より開業継続する所にして幸い四方諸彦の眷顧を蒙り日に月に隆盛に赴き候段感謝の至りに候、依って自分益々励精刻料印材共々に価を軽減し以て其思遇に報いんとす 希くは倍旧御懇命あらんことを 「謹白」
注・主に地方で発行される文学雑誌を利用した宣伝広告である。右は国華堂篆刻師山田白峰の広告である。
2023.09.13
石類の篆刻
石類の篆刻
文久年間(一八六いち~三)より以来八十有余年続けられてきた手彫りの技術は、昭和の初期までは印刀と小槌を使っての篆刻であった。この作業は能率的にも低く、一日十五、六字くらいの篆刻で認印に仕上げて七、八本というところであった。昭和元年(一九二六)、甲府の原正が電気篆刻機を発明し改良を重ねて印刀を打つ小槌を電動式としては今までの手彫りより約三倍以上の能率を上げることに成功し、篆刻業者によろこばれ、量産体制を整えたのであるが何といっても昭和六年(一九三一)に山梨水晶株式会社社長、米沢良知が五馬力の水晶墳砂篆刻機を完成したことは、 石類篆刻に新紀元を画し、業界を驚倒させることになった。
このように米沢が山梨の印章業界へ黎明をもたらした。しかもこの墳砂式篆刻機は米沢個人が独占することなく特許権を確保しなかったことは執筆すべきである。米沢はこの公開により山梨の印章業界を救い、水晶印の普及を広め、販路を国内から国外まで拡大したのである。米沢良知は忘れることのできない業界の恩人であり、救世主でもあった
2023.08.29
印章:刻まれてきた歴史と文化・・その6
印章:刻まれてきた歴史と文化・・その⑥ 最終回
(6.山梨の印章産業 )
現在生産量全国一位を誇る山梨の印章産業は、文久年間(1861~64)に水晶印の 篆刻から始まったといわれる。山梨では古くから水晶を産出していたが、それを工芸品な どに加工・販売するようになったのは天保年間頃のことといわれ、水晶印もその一環とし て製造されたのだろう。
時代は間もなく明治になり、印章普及の画期となる法令が出された。明治6年(187 3)の太政官布告第239号において、証書類には実印を押すことが求められた。
同11 年には印鑑登録の制度も定められ、誰もが法的な証拠能力を認められた実印を使うように なったのである。
こうした実印の制度が、印章の需要を大きく喚起したことは想像に難く ない。山梨でも印章産業が盛んになり、甲府や六郷(市川三郷町)を中心に展開する。
六郷では早くから全国に販路を展開したが、それまでの主要産品であった足袋の外商で 開拓してきた販路を活用したといわれる。行商人が各地を回って注文をとり、六郷へ戻ったら完成した印章を受け取り、再び注文先に出向くという方法だ。遅くとも明治30年代 には外商による販売を始めており、行商人が携えた印章の見本箱は、彼らの努力を物語る 貴重な資料といえよう。
印章制作の技術は勿論のこと、こうした売る努力も相まって、六 郷ははんこの町として知られるようになったのだろう。
また甲府では六郷に先行して印章産業が展開していた。
その中で注目したいのが、甲斐 物産商会が明治41年(1908)に出版した『八体配文 篆刻宝典』である。これは日本 人の主だった名字ごとに、印章で用いる8種類の書体を示したものだが、明らかに一般向けの書ではなく、同業者の技術向上をはかるためのものだ。山梨の印章産業は、その当初 から業界全体の底上げをはかるような取り組みをしていたといえよう。こうして培われて きた印章制作の技術は、山梨を代表する地場産業となった印章産業の基礎となり、平成6 年には山梨県の、同12年には国の伝統工芸品として「甲州手彫印章」が指定された。
山梨の印章産業は、水晶という自然の恵みに始まり、それを活かすための技術が培われ、 さらに全国に売り出す努力によって発展してきたといえよう。これらは県立博物館の主要 テーマである「山梨の自然と人」「山梨の交流の歴史」に共鳴するものであることを、私も 企画展を通して再認識することができた。
3月から5月8日まで開催された印章:刻まれてきた歴史と文化を6回のシリーズで掲載したものを皆様に発信をいたしました。時間があればもっともっと消費者に印章を知ってもらう企画等々を展示できたかと思うと少し残念な気持ちもあります。県のハンコ議連の議員の皆様、振興課の皆様、学芸員の皆様には感謝です。
2023.08.29
印章:刻まれてきた歴史と文化 5.庶民・女性の印
印章:刻まれてきた歴史と文化
5.庶民・女性の印
前回まで奴国王や戦国大名武田氏らの支配者が用いた印章、高芙蓉や野口小蘋ら文化人 による印章の制作・使用などを紹介し、印章の多様な歴史を垣間見てきた。ただし、誰も が印章を使い、はんこ社会とも呼べる現代日本の印章文化のルーツは、それだけで説明の つくものではない。はんこ社会の前提としては、庶民にまで印章の使用が広がった江戸時 代が重要である。 全国的にみた庶民による印章の使用は、戦国時代終わり頃(1590年代)から始まり、 寛永年間(1624~44)に定着していくと考えられている。 では、甲斐国の場合はどうだろうか?と思い、博物館の収蔵資料を探してみたところ、 最も古いもので寛永2年(1625)の資料を見出すことができた。高畑村(甲府市)の 佐兵衛らが署名の下に押印している。 この資料を皮切りに、庶民が押印した文書は確かに多くなっている。しかし、17世紀 代の資料には、押印以外にも花押や略押(花押を簡略化したもの)、拇印や爪印(指先に朱 や墨をつけて署名に押すもの)など、様々な方法が用いられている。 当時、印章を使うのは家主となる男性だけで、家主以外の男性や女性は印章を持たなか った。これは法的な責任をもつ主体が、家主の男性に限られていたことを示している。家 主の男性が死去して後家の女性が押印を行う場合にも、夫の印章を使ったり、他の方法で 押印に代えたりしていた。 女性による押印の代用方法として注目されるものが「紅判」だ。これは化粧に用いる紅 を指先につけ、署名の下に押したものである。写真は寛文8年(1668)、甲府町年寄を 務める坂田家において、財産相続に関する取り決めを行った文書である。5名の署名があ り、男性2名は花押と印章を使い、おるう・おへま・おせんの女性3名が、署名の下に紅 判を押している。紅判は甲斐国以外ではあまり例をみない、大変珍しい事例と考えられて いる。 ただし、現在確認されている紅判の事例は少なく、使われた時期や地域、使用した女性 の階層など、解明されていない部分も多い。今後、さらなる資料の発見や研究の進展が待 たれる。 江戸時代の庶民による印章の使用は、法的な責任能力を認められた家主の男性に限られ ていた。一方で書類にサイン・押印する機会は、家主以外の人々にも生じており、それは 女性も例外ではなかった。このことが、誰もがはんこを使用する社会の下地になったもの と考えられる。
2023.07.25
印章:刻まれてきた歴史と文化・・その4
4.印聖 高芙蓉
山梨は近代国家になってから知られるようになった印章業の聖地である。しかし、それ 以前、江戸中期に「印聖」と呼ばれた篆刻の才人が山梨に誕生した。それが高芙蓉である。
本姓は大島。祖父は水戸光圀に仕えた下級武士であった。彼は土蔵番を務めていた時に盗 難に遭い、甲斐に移った。父尤軒は儒医、芙蓉は医者にならず、京都に遊学して、のちに 儒者となった。
芙蓉が生まれたころ、歌舞伎では「国性爺合戦」が大ヒットした。国姓爺(歌舞伎では国 性爺)は鄭成功のこと。日本生まれで、父は中国、母は日本。幼名を国松と言った。演劇で は和と唐の間の子、主人公「和藤内」が大活躍するストーリーである。 鄭成功は明が清に征服される危機に立ち上がり、「抗清復明」を旗印に抵抗した人、また オランダの支配下にあった台湾を東寧王国として建国、「開台聖王」とあがめられている。
成功は日本に援助を求め儒者の朱舜水を送ったが、かなわず明は滅亡。亡命した朱舜水や 東皐心越、それに黄檗僧が当時の明朝の文化を日本にもたらした。 舜水や心越を徳川光圀は水戸に迎えた。
彼らは『大日本史』の編纂や儒者が弾く古琴の 普及、儒学・漢学を奨励し、林十江、立原杏所ら水戸南画の俊秀に大きく影響した。
明朝の危機は当時はやりの篆刻に及び、日本では近体派と呼ばれる装飾趣味の篆刻が流 行した。高芙蓉はこのような近体派の篆刻がもてはやされたころ京都に遊学した。彼は流 行によらず、弊風を改め、秦漢の古典を範とし、のちに古体派の篆刻を確立した。
江戸の 篆刻を一変させたのである。門人からは多くの俊秀が育ち、芙蓉派といわれた。師風は幕 末から近代へと受け継がれ、明治政府の御璽、国璽はその伝統から生まれたものである。
芙蓉は篆刻だけでなく、本業は儒者で、加賀藩に仕え、晩年には常陸宍戸藩に迎えられ た。また書画にも秀で、文人画の池大雅、書家の韓天寿と生涯の友となり、三人は白山、 立山、富士に登って、「三岳道者」の号を共有した。
彼の交友は広く、画家の柳澤淇園、与 謝蕪村、円山応挙、また伊藤若冲の支援者として知られる禅僧の大典顕常、文人の木村蒹 葭堂、儒者の柴野律山と枚挙に暇なしの感がある。 展覧会では大雅や応挙、林十江、立原杏所の絵画もご覧いただける。なかでも芙蓉が描 いた「山水図」(山梨県立美術館)は画中の為書きから書斎「芙蓉軒南窓」で描き、「池無 名画伯清鑒」と大雅に贈呈した逸品で、画中の楼閣に彼の中国趣味が見事である。
2023.07.18
石類の篆刻
石類の篆刻
文久年間(一八六いち~三)より以来八十有余年続けられてきた手彫りの技術は、昭和の初期までは印刀と小槌を使っての篆刻であった。この作業は能率的にも低く、一日十五、六字くらいの篆刻で認印に仕上げて七、八本というところであった。昭和元年(一九二六)、甲府の原正が電気篆刻機を発明し改良を重ねて印刀を打つ小槌を電動式としては今までの手彫りより約三倍以上の能率を上げることに成功し、篆刻業者によろこばれ、量産体制を整えたのであるが何といっても昭和六年(一九三一)に山梨水晶株式会社社長、米沢良知が五馬力の水晶墳砂篆刻機を完成したことは、 石類篆刻に新紀元を画し、業界を驚倒させることになった。
このように米沢が山梨の印章業界へ黎明をもたらした。しかもこの墳砂式篆刻機は米沢個人が独占することなく特許権を確保しなかったことは執筆すべきである。米沢はこの公開により山梨の印章業界を救い、水晶印の普及を広め、販路を国内から国外まで拡大したのである。米沢良知は忘れることのできない業界の恩人であり、救世主でもあった。