蔵六ブログ

2023.07.07

印章:刻まれてきた歴史と文化・・印章その③

 

印章:刻まれてきた歴史と文化・・その③

(3.絵画における落款印章 )

 絵画において、絵師の名前などが記されている下に、印が捺されているのをご覧になっ たことはないだろうか。これらは落款印章(らっかんいんしょう)といい、作品完成時 に記される絵師の名や、そこに捺される印のことを示している。日本において、落款印章 が付されるようになるのは鎌倉時代末頃から南北朝時代頃だといわれており、中国(宋・ 元)の絵画に倣う形で始まったと考えられている。

しかしながら、篆刻(てんこく)の方 法を研究した上で自ら印を刻すようになるのは、もう少しあとのことであった。 17 世紀半ば、中国の明王朝滅亡の折、日本に亡命した黄檗宗(おうばくしゅう)の渡来 僧によって、日本に近世篆刻文化がもたらされたことがひとつの契機となる。独立(どく りゅう)や心越(しんえつ)ら、篆刻に優れた僧らが日本に帰化したことによって、明末 清初の装飾的な作風が特徴の篆刻諸派が生まれることになる。また、山梨出身とされる高 芙蓉(こうふよう)の出現によって日本の近世篆刻界は大きな変貌を遂げることとなるが、 これについては第 4 回の掲載をお待ちいただきたい。

さて、絵画における印については流派などによってその形状が異なってくる。例えば、 日本最大規模の画派である狩野派で象徴的に用いられた鼎(かなえ)印(三つ足の古代中 国の金属器がモチーフとなった印)や、装飾的美に優れた作品を多く生み出した、琳派に おける美しい円印などが挙げられる。また、現代まで遺された絵師の印もあり、写実性に 優れた円山(まるやま)派の祖である円山応挙の遺印は、現在、三井記念美術館(東京都) に収蔵されている。

本県においても、例えば明治・大正時代の南画家である野口小蘋(しょうひん)の遺印 は、山梨県立美術館にまとめて収められている。また小蘋の作品には、自身の用いた印を デザインした表装、いわゆる小蘋表装と呼ばれる仕立てのものもあり、本展において はその表装デザインに用いられた印、及び印が小蘋のもとに納められた際の納品書もあわ せて展示している。 あくまでも、主役は絵である。しかしながら、その片隅の印もまた作品を構成する一部 であり、作品にとって欠かせない存在なのである。

2023.07.07

印章:刻まれてきた歴史と文化・・印章その②

 

印章:刻まれてきた歴史と文化から・・その2

(2.戦国大名の印判状 3 24 日)

「金印」の実物展示は 21 日で終了した。

 金印の後、日本で本格的に印章が使われるようになったのは、律令制が導入された奈良 時代のことである。ただ、律令に基づく押印の制度は徐々に変質し、平安時後期代以降は、 署名に手書きのサインである花押を据えた文書が主流となり、古代の押印文書は姿を消し ていく。

朝廷や武家政権である鎌倉幕府・室町幕府も、ほとんどの発給文書が花押による ものとなった。 花押は「書判」とも呼ばれ、広い意味では「はん」の一種だが、「印判」による文書(印 判状)の発給は、戦国大名の手によって復活することとなる。

小田原を本拠とした北条氏 にはじまり、次いで駿河今川氏、さらに甲斐武田氏も印判状を出すようになった。印判状 は東日本の大名が多用し、その流れはやがて全国に広がっていく。 展示では、武田信虎・信玄・勝頼の 3 代にわたる印判状を紹介している。

武田氏で最初 に印判状を出したのは信虎だ。その印は実名「信虎」をもとにしたものばかりである点が 特徴といえる。信虎を追放した信玄は、信虎の印をすべて廃し、新たに龍の絵を描いた円 形朱印(龍朱印)の使用を始めた。この印は勝頼にも受け継がれ、武田氏の家印といえる ものとなった。そして勝頼は、龍朱印を受け継いだだけでなく、新たに「獅子朱印」を創 出した。

印判状の発給は戦国大名だけでなく、大名に従属して独自の領域支配を展開した「国衆」 も、領内へ印判状を発給するようになった。国衆の場合、従属先の大名の印判状発給のシ ステムに影響を受けていたことが指摘されている。武田氏に従属した国衆では、穴山氏や 真田氏などの朱印状に武田氏の影響を見て取ることができる。 こうして戦国大名の印判状は、東日本から全国へ、大名から国衆へと広がり、印判状に よる行政が一般的なものとなっていく。

その意味で戦国大名の「ハンコ行政」は、現在の 文書行政のさきがけということができるだろう。

 

2023.05.18

水晶の研磨技術と印材加工

 前述のとおり山梨県内の水晶の加工品は、やく三千~五千年前の石器時代の遺跡から水晶石簇が発見されたことにより登場するのであるが、次の弥生時代には全くその姿を見せず、古墳時代(紀元三世紀~八世紀)に至って副葬品の中から装身具となり玉となって発見され登場してくるのである。
山梨県下で水晶原石の発見は、約一千年前ごろとなるのであるが、研磨技術としては水晶のお国柄にふさわしく、昇仙峡の奥、甲武信山脈の金峰山一帯を中心として産出した水晶の原石を使って印章(ハンコ)の研磨は生成発展していくのであるが、研磨工業が発祥して約五百年余ということになり、伝統産業としてほこれるものである。
研磨の初期は手やすり鑢一本の加工であったが、やがて足踏みの回転盤に変わり、電動機研磨時代に入ってきたのである。置物・印材・装身具などの美術工芸品を生産しながら江戸時代から明治、大正、昭和、平成、と研磨技術は発展し現在に至っている。
南北朝時代の建武二年(一三三五)普明国師は、夢窓国師に従って上洛し、鹿王院の開山となるが、しばしば甲州から水晶の原石を取り寄せて京都の玉づくりに数珠を作らせたと『水晶宝飾史』にある。鹿王院の寺宝である水晶の如意宝珠(重要文化財)はみがき磨は最上であり甲州水晶の特徴である、くもりが見られるので甲州産の水晶で作ったことは間違いないという。
とにかく甲斐にゆかりの深い夢窓、普明両国師によって、すでに南北朝時代(一三三〇~一四〇〇)から甲州と京都の水晶による交流があったことが推察されるわけである。
水晶の研磨は、天保年間(一八三〇~一八四〇)に御岳の神官が京都の玉屋弥助の教えを受けた玉造りであるという定説があるが、いずれにしても山梨の水晶加工の技術発展は京都と結ばれていたことに間違いない。
御岳金桜神社社宝の「火の玉・水の玉」も原石は御岳産の水晶であるが、加工の年代も加工の場所も京都の玉屋という以外にはわかっていない。
甲州水晶加工の始祖ともいわれる玉屋弥助は寛政六年(一七九四)京都に生まれた。弥助は文化、天保と水晶原石の購入のため、いく度か甲州へ来ていたという。御岳(甲府市)で研磨加工の技術の指導をしたとも文献に見える。甲州人も御岳に加工工場を開設し、江戸末期には甲府市内に数多くの加工業者も現れ、以来印材の加工も盛んになり、山梨のハンコ(水晶)が有名になったのである。
天保八-九年(一八三七)頃より天保末年の数年間に、御岳の職人によって印材も作られたという。
嘉永七年(一八五四)発行の「甲府市買物独案内」に次の三軒の水晶細工工場の名がみえる。
柳町三丁目 深輪屋甚兵衛・柳町三丁目 土屋宗助・金井町 亀屋彦右衛門
の三業者である。
玉のほかに印材、根附、数珠、玉兎、富士形文鎮などがつくられていたという。
水晶印の篆刻は文久一~三年(一八六一~三)にはじまったといわれている。嘉永名七年(一八五四)に水晶工場を開いた土屋宗助は、岩渕(静岡県)の藤岡屋藤兵衛を代理店として東海地方に活発な取引をしたといわれている。三代目土屋松次郎(号松華)は篆刻を業とし、印判をつくり東海道筋にかけて篆刻の技術を教えて回ったという。
土屋の遠祖は、武田が滅亡した天目山の戦いで、片手千人切りの部名をとどろかせた、勝頼の臣、土屋惣蔵昌恒といい。宗助はそれより幾代か後の子孫であると伝承されている。その宗助が江戸末期に市川大門町より、甲府市の柳町へ移り住み水晶工場を開設した。
明治十一年(一八七八)長田市太郎の嫡男、長田宗善は、篆刻に専念没頭し、篆刻用印刀を作り篆刻が本格的に完成するのは明治二十年代であったといわれている。
明治六年(一八七三)十月一日、太政官令により国民の等しくがハンコを使用することの制度となり、甲州印章の時代の幕開けとなった。明治九年には山梨県(県令藤村紫朗)に勧業試験場が創設され、二年後には水晶加工部を併置し、水晶加工の伝習も行われるようになった。このようにして山梨県の三業物産の名品としてハンコが脚光を浴びるようになった。
明治二十年(一八八七)なかばから河内地方に多くの印章の販売業と篆刻業者が増加するにつれ、山梨県の印章は全国へ販路求め、印章王国山梨となっていったのである。

2023.05.12

印章:刻まれてきた歴史と文化・・その①

 

印章 刻まれてきた歴史と文化 県立博物館企画展から」

 (1.開催の経緯、金印「漢委奴国王」 3 17 日) 約3年続いた新型コロナ対策も5月には一区切りを迎えようとしている。「ステイホー ム」が求められたことも今では懐かしいが、仕事を自宅等で行う「テレワーク」が普及す る中で、書類に押印するためだけに出社しなければならない人の存在が取り上げられ、印 章・ハンコに批判的な言説も見受けられるようになった。 さらに、政府による行政改革の一環としての「押印見直し」政策が、「脱ハンコ」に拍車 をかける。狙いとしては、これまで必要以上に押印を求めていた行政手続きを見直すこと で、業務の効率化や申請者の負担減を図ろうというものだった。

しかし巷間では「ハンコ 廃止」といった言葉が一人歩きしてしまい、印章業界は厳しい状況を強いられることにな った。 ただ、人類と印章・ハンコの関わりの歴史を紐解けば、「ハンコ廃止」の一言で片づけら れるほど簡単な問題ではないことがわかる。また山梨県は印章の生産量全国一を誇り、印 章産業は県を代表する地場産業の一つで、その歴史は150年以上に及ぶ。 いま大事なことは、安易なハンコ要否の議論ではなく、その歴史や文化を振り返ってみ ておくことではないかと考え、企画したのが、「印章刻まれてきた歴史と文化」である。 本展では、印章が果たしてきた役割とその変遷などについて、特に歴史的、文化・芸術的 な視点から紐解くとともに、山梨の伝統的産業である印章産業のあゆみを紹介することを 目指したものだ。

最初に注目していただきたいのが、福岡市博物館が所蔵する国宝「金印 漢委奴国王」 である。1784(天明4)年に志賀島(現在の福岡市東区)で発見された金印は、西暦 57年に後漢の光武帝が倭の奴国の使者に「印綬」を与えたとする「後漢書」の記載に符 合するものと考えられ、日本に現存する最も古い印章である。日本人と印章の関わりの起 点を金印に求めれば、約2千年の歴史を有するといえよう。今回、日本列島に暮らす人々 が初めて印章に出合ったことを象徴するものとして、3月21日(火・祝)までの期間限 定の特別公開となる。山梨初公開の貴重な国宝を、ぜひじっくりとご覧いただき、印章の 歴史・文化を思う契機としていただきたい。 展示では、古代律令制による文書への押印、戦国大名による印判状の発給、書画に用い られた印章と「印聖」高芙蓉による篆刻の変革、江戸~明治にかけ庶民に浸透した印章、 黎明期の山梨の印章産業などについて紹介している。一つ一つは小さな印章が語りかけて くる、日本人と印章の、長く多様な「刻まれてきた歴史と文化」に耳を傾けてい

ただきた い。 

2023.05.12

印章:刻まれてきた歴史と文化・・その①

 

印章 刻まれてきた歴史と文化 県立博物館企画展から」

(1.開催の経緯、金印「漢委奴国王」 3 17 日)

約3年続いた新型コロナ対策も5月には一区切りを迎えようとしている。「ステイホー ム」が求められたことも今では懐かしいが、仕事を自宅等で行う「テレワーク」が普及す る中で、書類に押印するためだけに出社しなければならない人の存在が取り上げられ、印 章・ハンコに批判的な言説も見受けられるようになった。 さらに、政府による行政改革の一環としての「押印見直し」政策が、「脱ハンコ」に拍車 をかける。狙いとしては、これまで必要以上に押印を求めていた行政手続きを見直すこと で、業務の効率化や申請者の負担減を図ろうというものだった

。しかし巷間では「ハンコ 廃止」といった言葉が一人歩きしてしまい、印章業界は厳しい状況を強いられることにな った。 ただ、人類と印章・ハンコの関わりの歴史を紐解けば、「ハンコ廃止」の一言で片づけら れるほど簡単な問題ではないことがわかる。また山梨県は印章の生産量全国一を誇り、印 章産業は県を代表する地場産業の一つで、その歴史は150年以上に及ぶ。 いま大事なことは、安易なハンコ要否の議論ではなく、その歴史や文化を振り返ってみ ておくことではないかと考え、企画したのが、「印章刻まれてきた歴史と文化」である。 本展では、印章が果たしてきた役割とその変遷などについて、特に歴史的、文化・芸術的 な視点から紐解くとともに、山梨の伝統的産業である印章産業のあゆみを紹介することを 目指したものだ。

最初に注目していただきたいのが、福岡市博物館が所蔵する国宝「金印 漢委奴国王」 である。1784(天明4)年に志賀島(現在の福岡市東区)で発見された金印は、西暦 57年に後漢の光武帝が倭の奴国の使者に「印綬」を与えたとする「後漢書」の記載に符 合するものと考えられ、日本に現存する最も古い印章である。日本人と印章の関わりの起 点を金印に求めれば、約2千年の歴史を有するといえよう。今回、日本列島に暮らす人々 が初めて印章に出合ったことを象徴するものとして、3月21日(火・祝)までの期間限 定の特別公開となる。山梨初公開の貴重な国宝を、ぜひじっくりとご覧いただき、印章の 歴史・文化を思う契機としていただきたい。 展示では、古代律令制による文書への押印、戦国大名による印判状の発給、書画に用い られた印章と「印聖」高芙蓉による篆刻の変革、江戸~明治にかけ庶民に浸透した印章、 黎明期の山梨の印章産業などについて紹介している。一つ一つは小さな印章が語りかけて くる、日本人と印章の、長く多様な「刻まれてきた歴史と文化」に耳を傾けてい

ただきた い。 

2023.01.19

水晶山開発の奨励

 水晶山開発の奨励
明治二年(一八六九)に新政府は、わが国の近代化を進めるにあたり、積極的に殖産興業に力を入れた。第一に地下資源の開発に目をむけることになり、同年二月、民間に鉱山開発を許可し試掘と売買を奨励した。水晶は幕末まで原石の採掘は許されず、かぎられた市場に出る製品は僅少であったが、新政府は試掘にあたって手当金の貸付までするようになった。
(一)御入用ノ儀ハ千両ニテモ弐千両ニテモ申出候ハハ御下ヶ相成候事
水晶山を開発するための資金を必要とするならば、申し出次第、千両でも二千両でもぐに下げ渡すという新政府の方針がうかがわれ、水晶抗之開発を刺激し、促進したことは言うまでもない。
明治三年には白須・大ヶ原村(白州町)横手村(白州町駒城)などから甲斐駒ケ岳の試掘の跡請があり、丹波山村(北都留郡)からも村内の泉水渓というところに水晶抗が見えたといい、新規百日間の試掘の願いが出されている。(『山梨県史』)
『甲斐国志』などに記載されている県内の水晶産地は前記の通りであるが、明治後も繁栄した山は金峰山周辺の水晶峠・倉沢山・向山・押出山・竹森山などであった。このほかに乙女鉱山(牧丘町)、八幡山(須玉町)、川端下(長野県・川上村)、市ノ瀬山(塩山市)、刑部平(同)、泉水渓(丹波山村)、船越(同)、鳳凰山麓獅子ノ木(武川)、駒ヶ岳(白州町)などの産地の名も上げられている。
しかし丹波山村では、明治三年(一八七〇)十二月から同四年三月まで試掘し、二回目を同年五月から八月まで。同四年十月から翌年正月まで三月にわたり較百日間ずつ延長承認で試掘したがついに水晶の生産は十分得ることなく終わっている。次々と大金を投入し、水晶山に対する投資は依然として盛んであったと『水晶宝飾史』に記されているが新規採掘は思うような成果を上げられなかったといわれている。
金峰山をめぐる各水晶鉱山の採掘最盛期には、御岳金桜神社の社領の住民たちは、米と味噌を背負って鉱山に分け入り、食料の続く限り幾日でも水晶の鉱筋を探し回った。幸いに一かま掘り当てれば連絡によって御岳や甲府から水晶の仲買人が集まり、市が立つほどで、これを目当てに臨時の飲食店や甲府から芸妓までが山に登ってきて大騒ぎの御岳にかわったといわれている。
乙女鉱山は、東山梨郡西保町(牧丘町)字北奥仙丈字倉沢。西山梨郡千代田村(甲府市)、および中巨摩郡宮本村黒平(甲府市)にわたる最も広大な水晶鉱山で、古来白色透明な良質の水晶を多く産出した鉱山であった。ことに透明な傾軸式双晶(写真参照)は、世界無比のものとして海外からも注目された。珍しい良品質の原石が産出されたので往来もはげしく奥山にしてはにぎわいをみせたという。
山梨県以外の国内水晶原石の主産地
(1)滋賀県の田の上山坑、苗木抗より煙水晶
(2)宮城県の小原抗より紫水晶
(3)鳥取県の藤屋抗より紫水晶
(4)福岡県の合戸抗より紅水晶
(5)秋田県の荒川鉱山より冠水晶
(6)新潟県の相川鉱山より水入水晶
等が主な産地として知られるところであるが、いずれも明治四十二年(一九〇九)から大正六年(一九一七)ごろにはほとんど採石はなく約十五年くらいで掘りつくされたという。大正になって山梨県も外国産の水晶を輸入しその需要に当てるようになった。

2023.01.05

山梨の水晶産地

 山梨の水晶産地
甲斐の水晶といえば、連想されるのが金峰山であろう。山梨の水晶産地は主に金峰山を中心とする関東山地と証する地域に集中している。甲府市北部から遠く武・信・上の三州にわたる広大な地域を占め、その最高点は金峰山(二五九五メートル)で朝日岳、甲武信岳等の二五〇〇メートル以上の高峰によって信・武と境をなし、笠取山から南走して甲府盆地の塩山に終わる支脈で国師岳から南西走して甲府市に終わる支脈。この間の谷間は笛吹川、金峰山より南西走するものは、茅ヶ岳とその裾野の竜王で終わる。この脈間に荒川を画し、御岳昇仙峡の絶景をつくり、花崗岩風景をあらわ露す。
金峰山より主脈は西走して横尾山に至り、一支脈の西南に派出するものがある。前支脈との間に塩川を涵養する。このように金峰山を中心にして集中しているのであり中でも甲府市黒平の向山坑から東山梨郡牧丘町の倉沢抗(乙女鉱山)、須玉町比志の押し出し抗は古くから透明良質の水晶を多く産出している。
金峰山麓での水晶の発見は天正三年(一五七五)で、今より約四百年前のことで、ちょうど武田勝頼が三河の設楽原(しだらがはら)で織田、徳川の連合軍に大敗した年であり、武田家滅亡の第一歩を踏み出したいわゆる長篠の戦いのあった年である。
伝承によれば水晶を発見したのは険しい山道を金峰山奥宮(甲府市の金桜神社は里宮)へ登山した行者だといわれているが、これを裏付ける資料はないが、甲州水晶の産地は金峰山を中心とする一帯地域で、金峰山には各所に露出した水晶が見られたであろうと文献に記述されている。
『甲斐国志』には、水晶は水精とあり、要するに書く水晶産地の山岳地帯を源流とする各河川の流水の流水が、あたかも清くすんだ透明の水晶からにじみ出た水の精のようであったことから「水精」としたものと思われる。
天正年間の織豊時代は、水晶採掘の制限はなかったと思われるので、自由に採掘しそのままきれいな石として珍重されたものといわれている。水晶の採掘が禁止されたのははっきりしないが、『銀山旧記』によれば、戦国時代には金銀の鉱山をめぐり豪族間に猛烈な争奪戦が行われたので、秀吉がこれを防ぐために鉱山奉行をおいて各地の鉱山を治め、財力をたくわえ、金張りの秀吉といわれるようになった。天下を掌握した家康もこれにならって金山奉行を設け、各地方の主要鉱山を直轄地としたことは有名である。
徳川家の金山奉行の大久保長安は、もともと武田家に仕え、武田家の財力に金山の採掘を開発して天下の武田と名を挙げたのも、大久保長安の鉱山技術であったからである。信玄によって開発された早川入りの保や、黒川千軒とうたわれた黒川金山(塩山市旧神金村)は有名であるが、黒川金山は真っ先に幕府直轄となって管理され、すべての山が幕府の方針によって、採掘や使用は一切禁止されたのである。
災害や自然崩落等により露出した水晶鉱石は幕府に届け出て後に払い下げられたようであるが、金峰山で発見された水晶が、これが最初であるという。 金桜神社の宮司のお話によると、金峰山の山頂に奥宮があり、医薬、禁厭(災難よけ)の守護神として、すくなひこのみこと少彦名命が鎮座され(二千年前)本宮となし、千五百年前に金峰山より御祭神を御岳に遷祀して里宮とし、数千年前より日本国中にその名を知られ、里宮から置く宮へと山岳信仰の盛んな江戸時代には特に行者の登山が多く、金峰山の水晶は、行者によって発見されたことは前述のとおりである。
金桜神社の社宝、火の玉・水の玉は有名である。「火の玉」は径一寸三分、径一寸の茶色透明の二個で、「水の玉」は径一寸強、径一寸、径五分の白色透明の三個で、あわせて五個の銘玉であるが、拝見させて頂けなかった。この玉は京都の玉造りに加工させたという。年代はつまびらかでない。
金桜神社から清川筋へ出る左折れの小さな峠の下り道がある。三十五年ほど前は土道で、水晶の破片が所せましと敷き詰めたように散乱していたのを思い出したが、今は全面舗装となってその面影はなかった。甲府方面へ水晶を搬出した主幹道であったと思われる。
甲府市黒平町上黒平の長老を訪ね、水晶の話を聞くことができた。その人は水晶研究科の藤原育弥さん(八十二歳)で明治時代より亡父が水晶原石の採掘を専業としており、大正時代に入り、父子で採掘の仕事をしていたという。「御岳千軒」という昔からの言い伝えについて藤原さんは、金峰山は古くより日本の三代御獄信仰霊場であり、多くの信者の登山があった。一五七八年(天正六年)金峰山から水晶が発見され、採掘工、加工職人、運搬人、それらを商う商人と人の交流が盛んになるにしたがい、日用品販売の商店、食堂、旅館、土産品店が軒を並べ、往来は盛大を極め、一時御岳町の沢沿いに千軒くらいの集落があったといわれているという。
黒平の水晶抗は、藤原さんの家の正面で南の山、県有林にある向山抗は、前述した鉱山を目前に見ることが出来た。しかし歩くと二時間はかかるという。明治四十年まで盛んに採掘されていたが、明治四十年前後の台風、水害による崩壊がいちじるしく採掘中止の状態となった。それ以後は先代とぼつぼつ、昭和二十年の終戦まで掘っていたが閉山したという。
向山抗(甲府市黒平町)の水晶の原石は、長さ三尺(約九〇センチ)のものが最大というが、これについては面白い話をきくことができた。採掘方法はたて穴式で、大穴方式といい、井戸彫りのように約一〇〇尺(約三〇メートル)もたてに掘り下げるため、鉱山を引き上げるのに村民が総出動して作業に従事したので別名村堀りといっていたそうである。
そのために三尺(約九〇センチ)以上の原石は危険なために穴の中に残して置いたそうである。採掘すると大きな原石のみがごろごろしているというのである。そこは今、水源凾養のため山地の崩壊の危険により手はつけられないままであるという。

2022.10.18

SDGsへの取り組み

 

SGDへの取り組みを開始いたしました。

モテギのアシストインは、皆様の地域に直接接する小売部門ですが、業界あげてSGDsに取り組むべく行動も開始いたしました。

まず、全国のハンコ屋さんにSDGsに取り組むように呼びかけを始めました。

 

■さて、ハンコの材料を印材と言います。いろいろな材質の印材が作られていますが、薩摩本柘植は循環型社会に一番適合している印材です。

薩摩柘植の苗木はさし木から始まり、5年~10年後に一坪に1本移植し、40年から50年で成木になります。

現在、印材用に地球上で唯一植林され、繰り返し生産されている貴重な資源です。

フシや傷はカラーコーテングされロスを極力減らす工夫もしております。

元々、江戸時代に島津斉昭公の頃、産業振興として、古柘に改良を加え、櫛の材料に使われました。

適当に硬く、粘りがあり、変形や割れを生じない、油に良くなじむなど、数々の優れた特徴を持っています。

15ミリ丸の実印サイズで、彫刻技術により価格は変わりますが、11000円より23000円にて承っております。

ハンココンシェルジュの私にご相談ください。

2022.10.15

山梨水晶の始まり


東山梨郡牧丘西保地内および塩山市荻原重郎原地内で発見された縄文式、石器時代前期および中期遺跡(約三千~五千年前)の遺跡跡から水晶石鏃(やじり)、およびその材料となったと思われる水晶の原石が発見されたと文献にある。水晶石鏃の発見によりこのことは水晶が人間生活と交渉をもった最古の実証であるとともに、山梨県内における水晶加工の第一号ではないかといわれている。
石鏃というのは、石で作った弓用のやじりのことで、縄文式石器の一つであり、獲物をねらって弓を射る矢の先に付ける刃を水晶で作ったというものである。
江戸時代に山野に散らばっているこの石鏃を見た人々はその用途はさっぱりわからなかった。『甲斐国志』にこれを落星石(ほしのくそ)と書いてあるほどである。ほとんど石鏃は黒曜石で作られ、広い範囲で使用されており、関東地方では伊豆と信州の黒曜石が有名であり、県内の発掘遺物は信州和田峠産のものといわれている。そうした中にあって山梨県で水晶の石鏃が用いられたことは石器時代から水晶産地としてのお国柄をひょうすものであったということができ、水晶の発見も加工も先史時代までさかのぼることは明らかである。
水晶工房の発見はわが国で今までは二~三世紀の鳥取県大栄町の西高江遺跡で発見されたものが最も古いといわれてきたが、平成四年に京都府弥生町(丹後半島奈具岡遺跡・弥生時代中期・一世紀・玉づくりの大きな工房跡が二十棟のたて穴式住居跡で発掘されてあきらかになり、日本最古の水晶工房跡と発表された。平成四年九月)山梨県内でこうした水晶発掘の背景には、少なくともその周辺に水晶の産地がなければならないはずである。水晶原石が初めて発見されたのは約一千百年前ではないかと考えられるのが通説となっている。
塩山市竹森にある郷社玉諸神社の御神体は巨大な水晶の天然石である。『甲斐古社史考』によれば、同社は延喜式神名帳に記載されており、それは「延喜式」の編纂当時に官幣、もしくは国幣社になっていたことを証するもので、平安時代元慶年間(八七七から八五)のころまでと推定されているので、玉諸神社の「社記」には、天平十八年(七四六)の年号が記載されている。同社記に、「神体(は)者水晶(の)之玉石ナリ 高サ七尺余大サ六尺八寸廻り地中に(かく)隠るること限りを(しらず)不知」とある。明治初年に盗難に遭い今は囲い六十センチ、重さ三十キログラムくらいの透明の水晶原石が祭られている。
前記の式内社と決定された元慶年間からかぞえても一千百年以前から存在したことになるので水晶之御神体もそのころ発見されていたものであろう。(『水晶宝飾史』)
『甲斐国志』は文化十一(一八一四)年に成立した、甲斐国の地誌で、当時の著名な水晶、または石英の産地を記している。それによると金峰水晶瀑布・水晶峠、石水寺山・金子峠(甲府市)、竹森玉宮社中、牛奥通明神(塩山市)、天目山(大和村)、石森村水晶渓(山梨市)、河浦村雷平(三富村)、苗敷山(韮崎市)、浅川村水晶山(高嶺町)などが記されこれらの土地が注目されたことは明らかである。さらに横手山(竹川村)、押出山(須玉町)なども記録に残されている。

2022.09.20

山梨の印章業の歴史 戦後の歩み

 昭和二十年八月十五日、うら盂蘭盆の最中に悪夢であった太平洋戦争は終結し、わが国の平和と平安が刻まれた一瞬であった。しかし建国以来初めての経験であり、日本全土が将来への不透明な不安の交錯していたときである。県都甲府市は同年七月六日の大空襲により廃墟と化してしまった。わが国民は優秀で、その努力によってこん渾然として復旧に立ち向かったのである。『狐と狸』(熊王徳平・増穂町)の行商販売の根性は映画化により、日本国中に甲州商人のたくましさが披歴された。
印章業界も早々に復活した。終戰から昭和二十四年の四年間は軍隊からの復員や軍需工場などから故郷への引き揚げが続き、戰後の復旧に当たり、特にGHQの方針により交通網の復旧は早く主幹鉄道は全面的に開通され、民生も安定し、行政も遅滞なく行き届いてくると、ハンコの需要が盛んになり、戦前のベテラン印章関係業者がまず復職し、就業につく仕事が少ない時代であったので簡単に印章の行商人となったものが急増していった時代であった。
昭和二十年十一月には、甲府市中央一丁目岡島百貨店正面(旧常磐町)に戦前より盛大に印材の問屋業を営んでいた山梨国産商会(七沢斉宮)が戦後第一号の印材問屋を再建開業した。
印章業の小売店舗も戦後三年間には諸所に散見されるようになり、出張販売業(行商)に職を求め全国へハンコの販売に出かける人々が加速的に増加していった。峡南地方を主として甲府市・中巨摩郡・北巨摩郡とほぼ全権かに拡大してその数は二千人とも三千人ともいわれた時代である。それに平行して彫刻業者も、復旧するものが自然に増え、六郷町を中心として甲府市・市川大門町などを中心としてこれまた三百人とも五百人ともいう人々が彫刻所を開業して需要にこたえていくように増大していった。
印判用品の卸業者も、昭和二十一年になると柳屋印材店(六郷町)・望月貢商店(六郷町)遠藤商会(甲府市)、二十二年には鈴木屋(六郷町)・原田晶光堂(六郷町)・一瀬印材店(甲府市)・堂月晶平堂(市川大門)・甲産商会(甲府市)・二十三年には大森印材店(甲府市)・渡辺正玉堂(六郷町)・二十四年にはモテギ(甲府市)、二十五年には河西印材店(甲府市)と世年間に十三社の問屋の開業を見るようになった。これらの卸業者により昭和二十五年四月、山梨県印判用品卸商業組合が設立された。このような状況下に小売業者と彫刻業者の態勢も整い三社一体となって伝統の山梨の印章は継承され飛躍発展して言った。
終戦直後の主たる印材は水晶、メノーであったが、山梨県特有の研磨技術を生かし、虎目石・砂金石・紫水晶・ヒスイ・ジャモン・ジャスパー・九雀石と印材として彫刻できる石材はすべてその販路に登場した時代である。木製印材はつげ柘植の産出が少ないため、桑の木・梨の木の印材も使用され、特に多かったのは椿材であった。二十三年ごろより本格的に日本柘植(本柘植という)が伊豆七島の御蔵島や、九州鹿児島県より薩摩柘植の良材が市場へ出回り木製印材の主流となっていった。
経済の発展と行政事情が多様になり、ますますハンコは必要性をました時代であり、昭和二十六年ごろになるとシャム柘植(タイ国産材)が輸入されるようになり、印章界は潤沢となり、大いに発展した。その他の印材に紅木があり、黒檀・紫檀なども高級木製印材として加工され販路にのるようになった。
主力であった水牛材は、関西方面が印材の産地で水牛材の輸入は戦前より肥料としての入荷であった。また船舶の底積み用として荷物の湿気防止のためにも利用され、印西店として輸入したものではないので安価に入手できたのである。これらは戦後直ちに山梨へ入荷され、特にビルマ産の水牛材が良質の印材として使われたようである。このころ大阪府松原市に製造業者は集まっていた。
象牙は江戸時代より輸入され、特に細工品としてこの時代には日本の繊細な手工芸品として明治・大正・昭和・と三味線のばち撥・ピアノ・その他の楽器や装飾品に多く利用されていたのであるが、印材としても利用されていたようであるが高価ということでほとんど見ることができなかった。戦後アメリカの進駐軍が日本の象牙装飾の細工を見て感心し、大阪の北商事を象牙取扱指定業者とし、二十六年には東京の北川象牙店も指定認可され全国のPXに象牙細工製品を納入したのが象牙の輸入の始まりである。
国内では国内有材や、加工業者は全国をめぐりビリヤードの玉(象牙)を求めて印材を作っていたのであるが、量も少ないので寸法は寸五丈が最長で、寸二丈が主力であった。水牛材への先次として二寸丈を市場に出していた。
象牙が自由に輸入されるようになったのは昭和三十年頃だとしているが、昭和六十二年には世界の五十パーセントがわが国へ輸出され、その七十パーセントが印材に加工されたということである。
昭和三十七年に入り、印相印鑑(別述参考)の販売方式が象牙印を主軸として商をしたため、象牙の輸入を押し上げたので、ワシントン条約問題は日本をターゲットとして業界に大きな波紋をなげかけることになった。
彫刻技術を生かして各種の標札は建築ブームと相まって、桜、桧、一位、欅等や各種大理石への彫刻標札が盛んに販売され戦前の印章王国山梨の名声を再現していったのである。しかし、平成三年、バブルの崩壊によりその波が業界にも押し寄せ、業績は低迷状態である。

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