蔵六ブログ
2022.06.23
朱印と黒印
海外渡航許可状は御朱印状で知られているが、社寺領に対しても御朱印が使われた。十万石未満の大名や旗本の知行についても朱印であった。十万石以上の大名には将軍の書き判(花押)であり、軽微な事項や私的文書には黒印が用いられたといわれている。事項の軽重におうじて書き判、朱印黒印というように使い分けたものと思われる。
明治の新制度 明治六年十月一日以後人民相互の証書に花王を用いることを禁じ、諸証書の姓名は必ず本人が自書して実印を押すべきものと定めたのである。
第一国立銀行では日々何百回と出される当座預金、請取証書、振出手形、為替手形に自書することは困難である旨を上申し、この書類のみ国立銀行では自筆の姓名を彫刻した印を作り、自身でこれを押し、かつ加印すべしとの許可がなされたのみである。このようにして国民等しく印章を用うることになり、この日を記念して、印章記念日とし、業界では毎年、全国で式典やイベントを行っている。
2022.05.27
21世紀の夫婦の形 夫婦別姓印鑑
虎の子預金
生涯幸せに暮らしていくためにはお金の管理が必要な時代です。夫と妻の財産は別々にし、夫婦共有の財産は虎の子預金として管理する。その為に用意したのが、夫婦別姓印鑑です。
お二人の旧姓でもいいし、名前でもいいし、ハートの中に一緒にいることが重要なのです。
印材は、10色ありますが、中にハートマークが入っているハンコ素材・・印材という・・です。
末長く、幸せ保証します。
2022.05.19
印章の彫刻様式
わが国の印章彫刻様式は、安土・桃山時代(天正五年~十四年・一五七七~一五八六)の約四百年前ポルトガル人が渡来し、鉄砲といっしょに印章篆刻技術も渡ってきたというのが定説である。
織田信長は全国より、版木職人、菓子形彫刻職人や印判職人など百人を京都に集め、ポルトガル人の講師の下に一ヵ年間の講習の結果、特別優秀な者三名を選び、これにさいじ細字の姓を与え、帯刀を許したのがわが国印章師の最も古い発祥であるという。
細字家は襲名で代々左平を名乗り初代は尾張の生まれであった前田利家と同郷だったので、利家が加賀藩主として天正十一年(一五八三)六月十四日に金沢城へ入城し、五年後の天正十六年(一五八七)三月左平は御用印判師として召し抱えられ、尾張町の現住所を賜り、現在の同地において印章店を経営する細字氏(金沢市尾張町二ノ九ノ二十二)白鶴堂がその十一代目である。
初代細字左平は京都で、四ヵ月を費やして、タガネで「つくばい」を彫刻した。それを前田利家に献上し、時代を経て水戸光圀が京都の龍安寺の中庭にすえられてある「つくばい」は、平面二尺五寸(約七五センチ)、高さ一尺五寸(約四五センチ)の丸形石材に楷書で、「吾唯足知」の四字を篆刻しているのが有名である。
中国の印章は角印であるが、西洋の印章は丸形と小判型である。わが国では両方の形を使用するようになり、この時代より角印、丸印、小判型と三種型になったのである。この時代は一般人には公印のみであったが、堺の商人にはハンコの使用が許されていたという。御朱印船の印は堺の商人が貿易の許可として使用していたものである。
江戸時代に徳川家康は、一般庶民にハンコの使用を布告している。これは「公禁令」であるが、実際には町民や百姓はハンコの使用は必要としなかったのである。一般には筆軸印(筆の軸に朱肉をつけて押す)などですませていたのであるが、元和年間(一六一五~二四)頃に社会経済の発展に伴い、百姓町人階級にも印章が流行するようになり、取引の証明と確認の意味において使用されるようになった。これが実印の始まりといわれている。しかし実際には名主、大家どまりで、訴訟などの場合も、名主、大家が羽織をつけてハンコの捺印をすることでことたりたといわれている。
江戸時代のハンコに対する川柳に、
○またハンコ大家しぶしぶ羽織を着
役所へ出向きハンコを押すときは必ず羽織をつけて立ち会ったのである。
○ハンコ屋は袴のうしろに質におき
格式の高い職業であった。前だけは袴をつけたように見せかけて判を彫っていた様子をうかがうことができる。
○ハンコ屋は刻ってやるぞと金を取り
○まんじゅうをもらって一判、倉がとび
ハンコは大切なものである。まんじゅう一つ頂いて、補償に押捺したばかりに倉を取られたのであろう。
古代より印章を押捺することは重大なことであった。印章の歴史を知り印章を大切にすることは自己の人格と信用を高めることになるのである。
2022.05.19
印章の彫刻様式
印章の彫刻様式
2022.04.25
花押印
花押印
花押印とは自署ではなく、花押を刻した印判のことであり、鎌倉時代の末期から次第に用いられるようになった。これは材質に輪郭だけを刻み込んだもので(図参照)、花押印を押した後に、係りの者がその輪郭の中を黒く墨で塗りつぶす方法であり、一部針の穴ほどを残しておき、そこを文章を発行するものが塗り、再確認するということを行って来たのである。
花押印は幕末ごろまで佐官に用いられていたのであるが明示の新政府は明治元年(壱八六八)に花押印の使用を禁止し、自筆の花押を用いなければならないことを定めている。
2022.04.12
歴代内閣総理大臣の花押
歴代内閣総理大臣の花押
明治時代以降は花押はほとんど用いられなくなったが、今でも各大臣が閣議の決裁文書に署名するときに用いられている。ほかに政界、財界、官界や風流を愛する人たちが愛用している。
2022.04.01
信玄の願文と武田諸士の起請文
長野県上田市は「信州の鎌倉」といわれるほど歴史資料や史跡が多いところである。その一角鎮座する生島足島(いくしまたるしま)神社は、信濃の国でも指折の古社・大社である。武田信玄の崇敬が厚く、信玄はしばしば祈願をした。
同社には武田信玄が、上杉謙信との決戦に先立ち、近郷の豪族はもとより、自分の過信や弟たちまでにわたり、神の前で主家に忠誠を誓う起請文を書かせ、血判と花押を書き百通り以上の誓約祈願をさせている。これらの起請文はいつでも無料で拝見することができ、中世を知る資料として一見の価値がある。この起請文は、信玄といえども絶対的に部下、武将に信頼を持てなかった時代であったことを証明する貴重な資料である。血判状の中には一部かわったものもある。これを傘連判状といい、円形で放射状に外部に向かって連署しそれに血判をしているのである。これは主体となる人物が誰であるのかわかりにくくするための連判状であり、江戸時代まで利用されていたという。
そのころ、上杉謙信は上の荷出陣して、武田、北条の連合軍とも争っているが、北信濃の諸将で信玄に追われて謙信を頼っているものも多いので、信玄も部下諸将の結束を固めておく必要があったとみるべきであろう。一族から諸奉行以下の被官に至るまで起請文を書かせ、生島足島神社(下之郷大明神)に納め信玄に対して逆心謀叛を企てることのないこと。謙信以下の敵方に内通することがないこと。自分は信玄に忠節を尽くすという内容の起請文である。
起請文は八十三通であるが連署しているものが多いので、武士は二百三十七名に及ぶ。熊野牛王宝印の裏に署名して、花押し血判を加えている。
武田信玄の戦勝祈願文には、およそ次のようなことが記されている。
「謹んで下之郷諏訪大明神に申し上げます。私(信玄)は越後の軍勢(謙信)が攻めてくるので戦うのがよいかどうか卜(うらな)ったところ、吉という卦がでました。そこでこの天の教えに従って出陣します。なにとぞ私の軍に勝利を与えられ、長尾景虎(謙信)が逃亡するようお助けをお願いいたします。もし私が凱歌をあげて帰国しましたならば、今年から十ヶ年間、毎年青銅貨十?(さし)ずつ尾者のため奉納いたします。」
永禄二年 武田徳栄軒信玄 花押
永禄二年(一五五九)といえば川中島合戦があった二年前である。このころ晴信は信玄(法名)として改名している。(?(さし)=(穴あき銭百文を紐で通したものすなわち百文のことである。)
武田信廉の起請文 永禄十年(一五六七)八月七日、武田信廉は甲・信・西上州の武田配下の諸将とともに、生島足島神社神前で、信玄に対し逆心謀叛(むほん)のないことを起請文に認めている。
信廉(のぶかど)は信玄の弟で入道して信綱・逍遙軒といった。仏画・肖像画に優れ、武人画家として有名で、その遺作、父信虎像(甲府・大千寺蔵)、母大井夫人像(甲府・長禅寺蔵)は、現存する国指定の重要文化財である。
天正十年(一五八二)、武田氏滅亡のとき、織田氏のために、府中立石(甲府市・旧和田村)で殺された。『惣見記』には「…武田が親類・家老ノ面々落残ル者モ尋出サレ、或ハ生捕或ハ生害ナリ、其輩武田逍遙軒、同隆宝…」などとあり、武田一党のなかで信廉は筆頭に挙げられていた。兄信玄の死を世間に隠すため身代わりとなって病床に伏して医師の診察を受けたりしたという、影武者として逸話がのこされている。『甲陽軍鑑』には、「御親類衆 逍遙軒 八十騎」とある。
起請文(写真)の訓読は次の通りである。
敬って白す。起請文の事
一 この以前捧げ奉り候数通の誓詞、いよいよ相違致すべからざるの事
一 信玄様に対し奉り、逆心謀叛等相企つべからざるの事
一 長尾輝虎を初めとして、敵方より如何様の所得を以って申す旨候とも、同意致すべからざるの事
一 甲・信・西上野三ヶ国の諸卒、逆心を企つと雖(いえども)も、それがしにおいては無二に信玄様御前を守り奉り、忠節を抽(ぬき)んずべきの事
一 今度別して人数を催し、表裏なく、二途に渉らず、戦功を抽んずべきの旨、存じ定むべきの事
一 家中の者、或は甲州御前に悪しき儀、或は臆病の意見申し候とも、一切に同心致すべからざるのこと
右の条偽(いつわ)り候はば、上は梵天・帝釈・四大天王・閻魔法王・五道冥官・泰山府君・熊野三所大権現・住吉・日吉大明神・弓矢八幡・御?楯無・甲州一二三の大明神・飯縄・戸隠の大権現等の御罸をまかり蒙(こうむ)り、今生に於ては阿鼻無間に堕在致すべきものなり。仍って起請文件の如し。刑部少輔信廉 花押
武田刑部少輔信廉といっしょに起請文を収めた将士で姓名がわかっている者が二百十七名、八十三通にのぼっている。信玄の弟である信廉からも起請文を徴していたのである。六カ条の起請条項は、信玄に対し二心のないことを堅く誓わせたことに要約できる。
信玄の周辺にどのような不慮の事件が起きようとも家臣団が絶対に動揺しないための先手であった。信玄が長尾輝虎を表面に出したこの起請文を、川中島作戦に関係深い塩田下之郷明神(生島足島神社、摂社諏訪上下大明神)に納めたことは、対越後戦の準備であろうと敵味方に思い込ませておき、その実は駿河進攻作戦の準備であったことは、やがて判明する。信玄の思慮深い作戦を垣間見る貴重な歴史資料である。
珍品、女性の花押 元亀四年(一五七二・天正元)武田信玄の武将で室賀信俊の妻「壱叶」と信俊の弟、経秀の妻「みかわ」が信玄の西上作戦に従った主人の無事を祈った願文である。
この年の四月十二日に信玄は死去しているが信俊は長篠城番を命ぜられ、三河長篠に篭城していた。壱叶・みかわは夫たちの身を心配して祈願文を捧げたものである。戦国時代の武将の妻の生きざまをうかがうことのできる数少ない資料であり、女性の花押は珍しい。
右敬申上、今度さん「三河」州なか志の「長篠」におひて室賀(信俊)被到篭状(城) さおひなく罷帰候て、偽法楽能を五三番神前ニ而可致之候 仍如件 壱叶(花押)
元亀四年八月十七日(みつのとの)
とり 三かわ(花押)
2022.03.17
戦国期の印章
戦国期の印章
室町時代の上級武士に愛用されたものがこの時代は武将に広く使用されているのが特徴である。武田信玄の朱印は「竜」である。父信虎は「虎」を使用している。上杉謙信は「獅子」であり、北条氏は「虎」をもちいている。関東の三傑の印押がいずれも動物であり、竜・虎・獅子であることは面白いことである。
武田信長は、天下布武の朱印を用いている。この時代は印章(ハンコ)は公卿や国王、または上級武士等が使用し、庶民は印章を用いることはなかったのである。
豊臣秀吉の時代(約四百年前)から一般人は筆軸印(筆の軸に朱肉をつけて押す)などを用い、それが江戸時代のなかばまで続いていたといわれている。
戦国時代に血判という方法が武士階級では使われ、テレビのドラマでもよく見られるのであるが、自分の言葉の真実を証明するために、主人に誓うことや、神や仏に誓う起請文として広く行われたのである。
2022.03.01
花押
花押
武将の願文とか起請文・遺言状などは、自分の心情を吐露する場合に使われ、一般的なものではなかった。この花押(書き判)は平安時代の後期になって広く行われるようになったのである。中世には書き半のことを、たんに判と呼んだこともある。
花押はわが国の風雅な、日本的サインの代表ともいうべきものであろう。この花押は、同時にハンコの役目ももっていた。
花押の「押」という字には署名するという意味があり、つまり花のように美しく署名したものという意味である。また、花押を「華押」とも書く。
徳川時代までは花押のことを単に「判(はん)」といった。判を加えるという言葉があるが、これは花押を書くことをいったものである。その後私印が使われるようになって、これを区別するために花押のことを書き判、印章のことを印判というようになったという説もある。また次のような一説もある。
元来「判(はん)」という語は、役所が裁判の判決を下す意味のことで、それらの証明に当初は役員が署名していたが、その後署名の変わりに花押がもちいられるようになったので、花押のことを判または書き判というようになったという説である。ようするに花押のことを判といったことが誤りであろうとなかろうと、中世においては長い間、判といってきたのは事実である。
花押のおいたち 奈良時代の項で種々記述した通り、印章は原則的には官印のことを言うのであるが、平安時代の初期になって自署の花押、すなわち書き判が広く使用されるようになると、ハンコとしての機能を代行するもので、印判を意味するものではなかったのである。
古来、文書の内容を証明する手段は、自署(署名)と花押と印判があった。文書を作成する場合に威は自力で書くことが望ましいことではあるが、実際には他人に代筆させることが多く、特に公文書や貴人の文書は記事や祐筆(ゆうひつ)に書かせるのが普通であり、その場合に発信者がその文書を間違いないと確認したということを表し、文章の信憑性を与えるために自分の名前の部分だけは自力で書く。これが自署(署名)である。
記事や祐筆が書くところは楷書、または行書で性格にていねいに書かれていたのであるが、自署部分は字画をくずし、楷書が行書になり草書となり、さらにくずれて、その人独特の書体を作り出して変化していったのである。世の中が進むにつれた他人の偽筆を防ぐ必要が生じ、故意に署名の書き方を複雑にして、一見判読できないような自署が生まれるようになった。これが花王であるという説もある。他に二、三の異説もあるが、やはり花押は自署から変化していったと見るのが妥当のように思われる。
それではこの自署が明らかに花押という形のものとなったのはいつごろからであろうか。
新井白石は、藤原佐理(平安中期の小野道風、藤原行成と共に書道の三蹟と称せられた)の西暦二年(九九一)の書状(花押入り)が初見であるといわれ、伊藤貞丈の文書は醍醐天皇の昌泰年中の花押が現れているのでこの文書は貞観元年(八五九)から昌泰元年(八九九)までの間のものであろうとみられている。
伊木博士は、これより以前の東寺文書中の仁明天皇承和十二年(八四五)民部省符の奥書に書かれている大椽紀某の署名などは自署というより花押とみてよいといっている。また大覚寺文書の中にある天長、承和ごろ(八二四‐八四八)の文書にも明らかに買おうといえるものがある。またわが国の花押は、「平安朝の初期の、仁明天皇(八三三‐八五〇)の前後より現れ始めたとみるべきであろう」。
花押の隆盛期は 花押は鎌倉時代の中期より、印に代わって広く使用されたという説が多い。この時代から花押時代がつくられたというのが一般的である。花押の使用者は、一国一城の武士階級に多く見られ、特に褒賞などに多く使われている。
花押には二合体と呼ばれるものがあり、それは姓名の二字を組み合わせたものである。室町時代には名前の一字を用いたものが流行するが、名前が二文字の場合は上の字を用いるのが普通とされている。それらのことを一字体といっている。さらに別用体と呼ばれるものもある。それは姓名と何等関係のない花押であり、戦国時代に多く用いられ、その多くは図案化されたものである。
2022.02.22
署名と記名
署名と記名
契約書を作成する場合、契約当事者が自分の名前を記す方法として、署名と記名があります。署名とは、本人が自筆で氏名を手書きすることです。筆跡は人によって異なり、筆跡鑑定を行えば、署名した本人が契約した証拠として、その証拠能力はきわめて高くなります。これに対して記名とは、自署以外の方法で氏名を記載することです。
例えば、他人による代筆、ゴム印を押したもの、ワープロで印刷する場合などです。記名は本人の筆跡が残らないため、署名に比べて証拠能力が低くなります。しかし、新商法第32条『この法律の規定により署名すべき場合には、記名押印をもって、署名に代えることができる。』と規定され、記名に押印を加えることで、署名に代えることができるとされています。
つまり、署名=記名+押印ということになり、契約においては押印は不要で、署名があれば契約は有効ということになります。しかし、日本では署名だけの契約書は不十分で、不安な感じがするのも事実です。一般的に署名にも捺印するというのが通例であり、署名の場合にも捺印してもらうのが安全といえるでしょう。法的な証拠能力としては、署名は盗難の心配がないため、証拠能力として高いと思われます。
- 署名捺印(+住所)
- 署名のみ(+住所)
- 記名押印(+住所)
- 記名のみ(+住所)正式な効力とは認められない
の順になっています。