蔵六ブログ
2022.04.01
信玄の願文と武田諸士の起請文
長野県上田市は「信州の鎌倉」といわれるほど歴史資料や史跡が多いところである。その一角鎮座する生島足島(いくしまたるしま)神社は、信濃の国でも指折の古社・大社である。武田信玄の崇敬が厚く、信玄はしばしば祈願をした。
同社には武田信玄が、上杉謙信との決戦に先立ち、近郷の豪族はもとより、自分の過信や弟たちまでにわたり、神の前で主家に忠誠を誓う起請文を書かせ、血判と花押を書き百通り以上の誓約祈願をさせている。これらの起請文はいつでも無料で拝見することができ、中世を知る資料として一見の価値がある。この起請文は、信玄といえども絶対的に部下、武将に信頼を持てなかった時代であったことを証明する貴重な資料である。血判状の中には一部かわったものもある。これを傘連判状といい、円形で放射状に外部に向かって連署しそれに血判をしているのである。これは主体となる人物が誰であるのかわかりにくくするための連判状であり、江戸時代まで利用されていたという。
そのころ、上杉謙信は上の荷出陣して、武田、北条の連合軍とも争っているが、北信濃の諸将で信玄に追われて謙信を頼っているものも多いので、信玄も部下諸将の結束を固めておく必要があったとみるべきであろう。一族から諸奉行以下の被官に至るまで起請文を書かせ、生島足島神社(下之郷大明神)に納め信玄に対して逆心謀叛を企てることのないこと。謙信以下の敵方に内通することがないこと。自分は信玄に忠節を尽くすという内容の起請文である。
起請文は八十三通であるが連署しているものが多いので、武士は二百三十七名に及ぶ。熊野牛王宝印の裏に署名して、花押し血判を加えている。
武田信玄の戦勝祈願文には、およそ次のようなことが記されている。
「謹んで下之郷諏訪大明神に申し上げます。私(信玄)は越後の軍勢(謙信)が攻めてくるので戦うのがよいかどうか卜(うらな)ったところ、吉という卦がでました。そこでこの天の教えに従って出陣します。なにとぞ私の軍に勝利を与えられ、長尾景虎(謙信)が逃亡するようお助けをお願いいたします。もし私が凱歌をあげて帰国しましたならば、今年から十ヶ年間、毎年青銅貨十?(さし)ずつ尾者のため奉納いたします。」
永禄二年 武田徳栄軒信玄 花押
永禄二年(一五五九)といえば川中島合戦があった二年前である。このころ晴信は信玄(法名)として改名している。(?(さし)=(穴あき銭百文を紐で通したものすなわち百文のことである。)
武田信廉の起請文 永禄十年(一五六七)八月七日、武田信廉は甲・信・西上州の武田配下の諸将とともに、生島足島神社神前で、信玄に対し逆心謀叛(むほん)のないことを起請文に認めている。
信廉(のぶかど)は信玄の弟で入道して信綱・逍遙軒といった。仏画・肖像画に優れ、武人画家として有名で、その遺作、父信虎像(甲府・大千寺蔵)、母大井夫人像(甲府・長禅寺蔵)は、現存する国指定の重要文化財である。
天正十年(一五八二)、武田氏滅亡のとき、織田氏のために、府中立石(甲府市・旧和田村)で殺された。『惣見記』には「…武田が親類・家老ノ面々落残ル者モ尋出サレ、或ハ生捕或ハ生害ナリ、其輩武田逍遙軒、同隆宝…」などとあり、武田一党のなかで信廉は筆頭に挙げられていた。兄信玄の死を世間に隠すため身代わりとなって病床に伏して医師の診察を受けたりしたという、影武者として逸話がのこされている。『甲陽軍鑑』には、「御親類衆 逍遙軒 八十騎」とある。
起請文(写真)の訓読は次の通りである。
敬って白す。起請文の事
一 この以前捧げ奉り候数通の誓詞、いよいよ相違致すべからざるの事
一 信玄様に対し奉り、逆心謀叛等相企つべからざるの事
一 長尾輝虎を初めとして、敵方より如何様の所得を以って申す旨候とも、同意致すべからざるの事
一 甲・信・西上野三ヶ国の諸卒、逆心を企つと雖(いえども)も、それがしにおいては無二に信玄様御前を守り奉り、忠節を抽(ぬき)んずべきの事
一 今度別して人数を催し、表裏なく、二途に渉らず、戦功を抽んずべきの旨、存じ定むべきの事
一 家中の者、或は甲州御前に悪しき儀、或は臆病の意見申し候とも、一切に同心致すべからざるのこと
右の条偽(いつわ)り候はば、上は梵天・帝釈・四大天王・閻魔法王・五道冥官・泰山府君・熊野三所大権現・住吉・日吉大明神・弓矢八幡・御?楯無・甲州一二三の大明神・飯縄・戸隠の大権現等の御罸をまかり蒙(こうむ)り、今生に於ては阿鼻無間に堕在致すべきものなり。仍って起請文件の如し。刑部少輔信廉 花押
武田刑部少輔信廉といっしょに起請文を収めた将士で姓名がわかっている者が二百十七名、八十三通にのぼっている。信玄の弟である信廉からも起請文を徴していたのである。六カ条の起請条項は、信玄に対し二心のないことを堅く誓わせたことに要約できる。
信玄の周辺にどのような不慮の事件が起きようとも家臣団が絶対に動揺しないための先手であった。信玄が長尾輝虎を表面に出したこの起請文を、川中島作戦に関係深い塩田下之郷明神(生島足島神社、摂社諏訪上下大明神)に納めたことは、対越後戦の準備であろうと敵味方に思い込ませておき、その実は駿河進攻作戦の準備であったことは、やがて判明する。信玄の思慮深い作戦を垣間見る貴重な歴史資料である。
珍品、女性の花押 元亀四年(一五七二・天正元)武田信玄の武将で室賀信俊の妻「壱叶」と信俊の弟、経秀の妻「みかわ」が信玄の西上作戦に従った主人の無事を祈った願文である。
この年の四月十二日に信玄は死去しているが信俊は長篠城番を命ぜられ、三河長篠に篭城していた。壱叶・みかわは夫たちの身を心配して祈願文を捧げたものである。戦国時代の武将の妻の生きざまをうかがうことのできる数少ない資料であり、女性の花押は珍しい。
右敬申上、今度さん「三河」州なか志の「長篠」におひて室賀(信俊)被到篭状(城) さおひなく罷帰候て、偽法楽能を五三番神前ニ而可致之候 仍如件 壱叶(花押)
元亀四年八月十七日(みつのとの)
とり 三かわ(花押)
2022.03.17
戦国期の印章
戦国期の印章
室町時代の上級武士に愛用されたものがこの時代は武将に広く使用されているのが特徴である。武田信玄の朱印は「竜」である。父信虎は「虎」を使用している。上杉謙信は「獅子」であり、北条氏は「虎」をもちいている。関東の三傑の印押がいずれも動物であり、竜・虎・獅子であることは面白いことである。
武田信長は、天下布武の朱印を用いている。この時代は印章(ハンコ)は公卿や国王、または上級武士等が使用し、庶民は印章を用いることはなかったのである。
豊臣秀吉の時代(約四百年前)から一般人は筆軸印(筆の軸に朱肉をつけて押す)などを用い、それが江戸時代のなかばまで続いていたといわれている。
戦国時代に血判という方法が武士階級では使われ、テレビのドラマでもよく見られるのであるが、自分の言葉の真実を証明するために、主人に誓うことや、神や仏に誓う起請文として広く行われたのである。
2022.03.01
花押
花押
武将の願文とか起請文・遺言状などは、自分の心情を吐露する場合に使われ、一般的なものではなかった。この花押(書き判)は平安時代の後期になって広く行われるようになったのである。中世には書き半のことを、たんに判と呼んだこともある。
花押はわが国の風雅な、日本的サインの代表ともいうべきものであろう。この花押は、同時にハンコの役目ももっていた。
花押の「押」という字には署名するという意味があり、つまり花のように美しく署名したものという意味である。また、花押を「華押」とも書く。
徳川時代までは花押のことを単に「判(はん)」といった。判を加えるという言葉があるが、これは花押を書くことをいったものである。その後私印が使われるようになって、これを区別するために花押のことを書き判、印章のことを印判というようになったという説もある。また次のような一説もある。
元来「判(はん)」という語は、役所が裁判の判決を下す意味のことで、それらの証明に当初は役員が署名していたが、その後署名の変わりに花押がもちいられるようになったので、花押のことを判または書き判というようになったという説である。ようするに花押のことを判といったことが誤りであろうとなかろうと、中世においては長い間、判といってきたのは事実である。
花押のおいたち 奈良時代の項で種々記述した通り、印章は原則的には官印のことを言うのであるが、平安時代の初期になって自署の花押、すなわち書き判が広く使用されるようになると、ハンコとしての機能を代行するもので、印判を意味するものではなかったのである。
古来、文書の内容を証明する手段は、自署(署名)と花押と印判があった。文書を作成する場合に威は自力で書くことが望ましいことではあるが、実際には他人に代筆させることが多く、特に公文書や貴人の文書は記事や祐筆(ゆうひつ)に書かせるのが普通であり、その場合に発信者がその文書を間違いないと確認したということを表し、文章の信憑性を与えるために自分の名前の部分だけは自力で書く。これが自署(署名)である。
記事や祐筆が書くところは楷書、または行書で性格にていねいに書かれていたのであるが、自署部分は字画をくずし、楷書が行書になり草書となり、さらにくずれて、その人独特の書体を作り出して変化していったのである。世の中が進むにつれた他人の偽筆を防ぐ必要が生じ、故意に署名の書き方を複雑にして、一見判読できないような自署が生まれるようになった。これが花王であるという説もある。他に二、三の異説もあるが、やはり花押は自署から変化していったと見るのが妥当のように思われる。
それではこの自署が明らかに花押という形のものとなったのはいつごろからであろうか。
新井白石は、藤原佐理(平安中期の小野道風、藤原行成と共に書道の三蹟と称せられた)の西暦二年(九九一)の書状(花押入り)が初見であるといわれ、伊藤貞丈の文書は醍醐天皇の昌泰年中の花押が現れているのでこの文書は貞観元年(八五九)から昌泰元年(八九九)までの間のものであろうとみられている。
伊木博士は、これより以前の東寺文書中の仁明天皇承和十二年(八四五)民部省符の奥書に書かれている大椽紀某の署名などは自署というより花押とみてよいといっている。また大覚寺文書の中にある天長、承和ごろ(八二四‐八四八)の文書にも明らかに買おうといえるものがある。またわが国の花押は、「平安朝の初期の、仁明天皇(八三三‐八五〇)の前後より現れ始めたとみるべきであろう」。
花押の隆盛期は 花押は鎌倉時代の中期より、印に代わって広く使用されたという説が多い。この時代から花押時代がつくられたというのが一般的である。花押の使用者は、一国一城の武士階級に多く見られ、特に褒賞などに多く使われている。
花押には二合体と呼ばれるものがあり、それは姓名の二字を組み合わせたものである。室町時代には名前の一字を用いたものが流行するが、名前が二文字の場合は上の字を用いるのが普通とされている。それらのことを一字体といっている。さらに別用体と呼ばれるものもある。それは姓名と何等関係のない花押であり、戦国時代に多く用いられ、その多くは図案化されたものである。
2022.02.22
署名と記名
署名と記名
契約書を作成する場合、契約当事者が自分の名前を記す方法として、署名と記名があります。署名とは、本人が自筆で氏名を手書きすることです。筆跡は人によって異なり、筆跡鑑定を行えば、署名した本人が契約した証拠として、その証拠能力はきわめて高くなります。これに対して記名とは、自署以外の方法で氏名を記載することです。
例えば、他人による代筆、ゴム印を押したもの、ワープロで印刷する場合などです。記名は本人の筆跡が残らないため、署名に比べて証拠能力が低くなります。しかし、新商法第32条『この法律の規定により署名すべき場合には、記名押印をもって、署名に代えることができる。』と規定され、記名に押印を加えることで、署名に代えることができるとされています。
つまり、署名=記名+押印ということになり、契約においては押印は不要で、署名があれば契約は有効ということになります。しかし、日本では署名だけの契約書は不十分で、不安な感じがするのも事実です。一般的に署名にも捺印するというのが通例であり、署名の場合にも捺印してもらうのが安全といえるでしょう。法的な証拠能力としては、署名は盗難の心配がないため、証拠能力として高いと思われます。
- 署名捺印(+住所)
- 署名のみ(+住所)
- 記名押印(+住所)
- 記名のみ(+住所)正式な効力とは認められない
の順になっています。
2022.02.17
日本の印章
わが国に現存する印章の最も古いものは天明四年(一七八四)に筑前(福岡県)の志賀島で発見された「漢倭奴國王」という印文のあるもので、西暦五十七年に中国で作られたものであり、これが使用されたかどうかははっきりしていない。現実に使用された印章は、奈良時代のものが最古ということになる。
奈良時代の前期、孝徳天皇(六四語)の大化の改新で律令国家が成立するが、この時代に中国の制度を取り入れて公文書の行使が開始された。ここで初めて印判(ハンコ)が定められる。文書の効力を確実にするため印の使用が見られるが、印判を作ることは国家の特権であり、私人の印章を作るのは国の許可が必要であった。
『日本書紀』に持統天皇(六九二)に始まり、大宝元年(七〇一)に律令が完成して天使の内印太政官の外印、諸司印、諸国主印の四種がその形状、用法まで制定されたと記されている。これらの印章は、二つの目的があったと考えられている。一つは文章の真を正すこと。一つは律令国家の權威を示すことを目的としたのである。
「印の用たる実に信を取るにあり、公私これによって嫌疑を決す」とある。しかし主たる意味は、権力の象徴であり、印の使用は公私に限られていたことにより、それを推察することができるのである。
天平勝宝八年(七五六)藤原仲麻呂は孝謙天皇より「恵美」の姓を賜り、そのとき特に「恵美家印」を用いることを許されたとしている。それが家印の第一号と思われる。しかし個人の名前を刻した私印(無許可)を捺印した文書もこの時代のものが残っているので、こういう違反者もあり面白いと同書にある。平安時代になると印の使用も広がったようである。と諸文献に見える。
この時代の印は、鍛冶屋に命じて作らせた。つまり鋳造印である。その材質の多くは銅製であった。印の字体は中国の篆書にとらわれず、日本独特の字体が刻まれており、いわゆる「倭(やまと)古天」といわれる字体である。一般の人は印鑑をもつことは許されず、「画指して証をなせ」という条文の通り、字のかけないものは、代筆された文書に直線で食指の長さを記し、かつ関節の所に短い横線を入れたものがその証印の代わりとされた。男性は左指、女性は右指を用いたとある。
平安時代に入ると「手印」手形と呼ばれ、掌(てのひら)に印肉をつけておすことをした。その手形の制度は江戸時代まで使用されている。
2022.02.17
武田流花押の歴史
■武田流花押 武田流花押とは 武田信玄から花押所に任じられた小池和泉守胤貞によって、 甲斐武田家一門のために考案され、確立された花押形体である。 明白な発祥(確立)の由緒と、 小池家の一子相伝による四百五十余年の歴史を持っている 花押流派は、現在、武田流花押だけである。 ほかの花押形体と異なるところは・・・ ① 模倣や偽筆防止策を施した自署機能の拡充や形体の美しさばかりではなく、 花押を使う人の運気を高めることや生き方の美しさをも追求している。 ② 花押全体に易学を背景とした施術がされている。 ・運気を逃さないために、生まれ歳の干支に拠る「空穴(めど)」を創る。 ・花押を持つ人の生き方を高めるために、花押を構成する線に「八壽線(はちじゅせん)」を創定する。 武田流花押は、自署のためのツールであるとともに、一種の「御護り」でもある。 武田流花押の由緒 小池藤五郎基胤博士の考証によれば、武田流花押のルーツは、武田信玄からさかのぼること 四百年、源義家(八幡太郎)、源義綱(賀茂次郎)、源義光(新羅三郎)の三兄弟が育った河内国の 源家の居住地「香炉峰の館」の典雅な公家様(くげよう)にたどり着く。 ちなみに、河内国古市郡壷井(大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とする源家は、清和源氏の一 流で「河内源氏」という。一般的に、武士で「源氏」という場合、この河内源氏の系統を指す。 義光の三男義清とその子清光が大治 5(1130)年、常陸国武田郷(茨城県ひたちなか市武田)か ら甲斐国巨摩郡市河荘(山梨県西八代郡市川三郷町)に入り、甲斐源氏の始祖となる。 清光の長男(次男とも)信義は、保延 6(1140)年、13 歳のとき甲斐国巨摩郡武田荘(山梨県韮崎 市神山町)の武田八幡宮で元服し、武田太郎信義と名を改め、同地を本管地とし、甲斐武田氏 の始祖(甲斐武田家の初代)となる。爾来、命脈は四百年の星霜を経て、武田家 16 代当主武田 信玄へと続く。 河内国の「香炉峰の館」を出た源家の花押も、甲斐国を包む富士山・鳳凰三山(ほうおうさんざん)・駒 ヶ岳・八ヶ岳・金峰山(きんぷざん)の雄健な稜線と、北巨摩郡内の遊水地帯の複雑な流れなどが、花 押の線となって加わり、平安朝の高雅な形体も薄らいで複雑な展開を見せていた。 そこで、武田信玄は、信玄暗殺未遂事件を契機に花押所(かおうどころ)を制定し、その主宰を小池 和泉守胤貞に命じた。胤貞は、これまでの花押に、模倣・偽筆防止の秘策と一族郎党と共に生き 抜くために易学に基づく術策を加えて、新形体の花押式「武田流花押」を確立させた。 小池和泉守胤貞公 (武田流花押創始者) 小池和泉守胤貞公の甲斐小池氏は、津金郷(山梨県北杜市須玉町津金を所領した津金氏から分出した諸氏の一つで、小池郷(山梨県 北杜市高根町小池)を本管地とする氏族である。ちなみに、津金氏の出自については、甲斐武田氏と兄弟となる甲斐逸見氏(へみし)の一 族とする説(田富町誌)と、常陸佐竹氏の分流だとする説(甲斐国志)があるが、逸見氏と佐竹氏の始祖はどちらも源三郎義光(新羅三郎)な ので、どちらの説を採っても、大きくは義光流の一族である。 津金氏は、戦国時代には、辺境地域武士団「津金衆」として甲斐国巨摩郡逸見筋(釜無川左岸一帯)と信州へ通じる佐久往還の防衛を 担っていた。同じく辺境地域の防衛にあたっている、巨摩郡武川筋(釜無川右岸一帯)の「武川衆」、巨摩郡北山筋の「御岳衆」、八代郡中 郡筋の「九一色衆」らとともに、甲斐武田氏の統属組織の主力を成していた。 小池氏自体は津金衆の一員だったため、武田氏時代の歴史には表立って出てこない。信玄暗殺未遂事件とそれを契機とした花押所拝 命のとき小池和泉守胤貞の名が登場する。そして、武田家滅亡後は、津金衆の頭目として武田家遺臣らの徳川家康への服属に奔走した。 それによって津金一族の存続が図られるとともに、小池氏自体には、従来の巨摩郡小池郷の本領を安堵されたうえに、巨摩郡河原村(山 梨県中央市臼井阿原)が給された。一族も厚遇され、武蔵(埼玉県)や尾張(愛知県)などへ多くの者が士分として発展している。あるいは、 和泉守胤貞のように帰農した者は、定住先の地域で豪農や庄屋として江戸時代を送っている。 小池和泉守胤貞公の花押エピソード 信玄暗殺容疑を花押が晴らす! 永禄 8(1565)年 10 月初旬、信玄の嫡男義信と飯富寅昌(おぶとらまさ)らによる信玄暗殺の企てが発覚した。その連判状に、津金衆(つがね しゅう)の頭目小池和泉守胤貞の名前があった。だが、それは他人の手による署名と花押だった。信玄の尋問に対して胤貞は、自身の花押 に講じている模倣や偽筆防止策を説明し、身の潔白を証明した。これを機に、信玄は花押所を制定し、花押に対する高い見識を持ち、こ れまでも武田信虎や信玄らの花押を謹考している胤貞を統括者とした。また、武田流花押形体を確立させ、それに基づく武田家一門の花 押の調製と管理、武田流花押形体を小池家が一子相伝で伝承していくよう下命した。 ちなみに、この信玄暗殺未遂事件により、嫡子だった義信は幽閉後に自害し、二男は夭逝していて、三男龍宝は視覚機能に障害があり 出家していたため、四男勝頼が実質的に嫡子となり、第 17 代当主として武田家を率いることになった。 信玄の遺志は、第 17 代当主は勝頼の子信勝(信玄の孫)とし、勝頼は信勝が 17 歳になるまで陣代(後見人)を務め、その後は出自である 諏訪家を継承させるというものだった。 だが、織田・徳川連合軍による甲斐侵攻、武田家征伐へと情勢が激変してくるなか、勝頼は当主として動かざるを得なくなり、「武田家 最後の当主」として「武田家滅亡」を迎えることとなる。 小池藤五郎基胤博士 (武田流花押第 15 代伝承者) 山梨県北巨摩郡更科村(韮崎市上ノ山)生まれ。生年明治 28(1895)年 1 月 30 日、没年昭和 57(1982)年 11 月 4 日。享年 87。日本近代 文学の研究者。狂歌人でもあった。山東京伝、曲亭馬琴などの読本を専門とし、『南総里見八犬伝』岩波文庫版の校訂者として知られる。 黄表紙研究者の小池正胤は藤五郎博士の子息。 武田流花押の創始者小池和泉守貞胤の末裔で、武田流花押第15代伝承者。実家は富裕な庄屋の家系で、甲斐国のみならず江戸 の文人との交流がある環境だった。曾祖父にあたる小池伝右衛門富章(号は勝山、文雅園)は国学・漢学に通じ、狂歌師として「白水亭亀 丸」の号を持っていた。小池家には『南総里見八犬伝』が肇輯(じょうしゅう)から初版本が揃っており、近郷唯一の『八犬伝』として親戚・知人や 家来筋の人々にも愛読されたというが、明治 31(1898)年、韮崎市の東側を縫うように流れる塩川の長雨による氾濫で書庫と共に流失してし まったという。 昭和 3(1928)年東京帝国大学文科卒業、東京高等学校教授、東洋大学教授、昭和 28(1953)年「徳川時代大衆文学の主軸である赤本、 黒本、青本の研究」で東洋大文学博士。都留文化大学教授、立正大学教授を歴任後、昭和 49(1974)年定年。東京音楽大学教授。
2022.02.15
ビジネスで使う角印と丸印の違い
ビジネスで使う「角印」と「丸印」の違い、説明できますか? ハンコにまつわる豆知識
ビジネスシーンでは、複数の「法人印」が利用されています。例えば、領収書や見積書を発行する際は、法人名などが刻印された「角印」が用いられます。また、利用する場面は少ないものの、「角印」とは異なる役割を果たす法人印として「丸印」が広く知られています。そこで本記事では、「ハンコにまつわる豆知識②」として、日常的に目にするものの詳しくは知らない、法人印の種類や効果、利用シーンなどについて解説します。
「法人の認印」としての役割を果たす角印
法人印として最も触れる機会が多いのは、角印ではないでしょうか。角印は、「会社印」や「社判」などとも呼ばれる角形の法人印です。主に請求書や領収書、契約書など、企業名義で発行する文書に押され、確認を行ったことを証明する役割を果たします。
しかし、必ずしも文書の発行や確認を証明する場面で角印が求められるわけではありません。あくまで角印は文書の証明力を担保する1つの手段であり、角印が押されていない請求書や領収書などにも法的な効力は備わります。そうした「文書の発行や確認を証明するために押される」「省略しても文書の効力は失われない」といった特徴は、個人用の認印と共通しています。つまり「法人の認印」の役割を果たすのが角印です。また、角印は通称であり、必ずしも角形が義務付けられているわけではありません。後に解説する丸印と区別を付けるためなど、あくまでも慣習上の目的から、角形という言葉が一般的に用いられています。
「法人の実印」である丸印。角印との違いは?
一方で丸印は、「代表者印」や「会社実印」などとも呼ばれる丸型の法人印です。登録が義務付けられていない角印に対して、丸印は商業登記法20条の規定により、法人設立時に法務局への登録が求められます(※1)。登録した丸印は、法務局から印鑑証明書を取得するのが可能となるなど、「法人の実印」としての役割を果たします。
個人用の実印が、財産の取引などでしか利用されないのと同様に、丸印の利用シーンも非常に限定的です。そのため、丸印に馴染みのない方も多いかもしれません。
具体的に、丸印は以下のような場面で使用されています。
- 代表取締役を変更するとき
- 株券発行するとき
- 連帯保証契約を締結するとき
- 企業買収を行うとき
- 官公庁への入札をするとき
また、金融機関に口座を開設する際にも法人印の届出が求められますが、偽造防止などの観点から丸印とは別の「銀行印」を作成し、届け出るのが一般的とされています。
丸印には、どんな印鑑を選べばよい?
角印には、サイズ・形状の法律規定がないのに対し、丸印は法務局によって定められた規定が存在します。商業登記規則第9条3項にて、「印鑑の大きさは、辺の長さが一センチメートルの正方形に収まるもの又は辺の長さが三センチメートルの正方形に収まらないものであつてはならない」と記されており(※2)、丸印の印影は直径1cm以上3cm未満と定められています。
一方で、印影の形状や刻印内容については規定されていませんが、二重の円の外側に会社名や屋号、内側の円に代表者の役職を刻印するのが一般的です。さらに、商業登記規則第9条4項には「印鑑は、照合に適するものでなければならない」ともあり、経年などにより印影が変化しやすいハンコは丸印として登録することができません。そのため、シヤチハタやゴム印などは、丸印に適さないとされています。
2022.02.11
判子の素材 印材と言います
アカネ
木のぬくもりのある素材です。木の中ではもっとも繊維が詰まっている木であり印材に適しています。(別名:シャムつげともいわれていました)ほとんど東南アジア等で生産されております。手に馴染むやさしい質感でありながら木質は極めて硬く、繊細な彫刻が可能です。
本柘植
植物性の印材として、古くから愛用されています。木材の中では密度が高く硬質であり、使用するほどに、艶が出て見た目にも美しい印材です。本柘植は主に日本産で島柘とサツマ柘とに分類され、現在はサツマ柘が主流になっています。柘に比べると黄色っぽく艶があるのが特徴です。
黒水牛
大陸の水辺の草原に好んで生息する牛科の動物の角を加工したものです。主にインドやタイに生息しています。粘りのある強さと耐久性は印材としても優れ、黒く艶のある美しさが特徴です。角1本に、印材1本しかとれない貴重品です。賢牢性や朱肉のつきの良さに優れています
牛角色
多種多様な色合いと独特な模様が特徴の美しい素材です。世界中に分布する陸牛の角を加工したものです。飴色のような茶色等の色で1本1本色合・模様が違います。(サンプル写真とは色合いが異なります)
牛角白
多種多様な色合いと独特な模様が特徴の美しい素材です。世界中に分布する陸牛の角を加工したものです。白材は数も少なく非常に貴重な素材です。
象牙 特選品
象牙は、品格、質感、耐久性や耐摩耗性が高く、印材の中では最高の素材といわれています。ワシントン条約で輸入禁止になりましたが、当店の象牙は、現在日本国内で流通しているものと一時的解禁された際の合法的な印材です。芯に遠い特選品です。
象牙 高級品
象牙は、品格、質感、耐久性や耐摩耗性が高く、印材の中では最高の素材といわれています。ワシントン条約で輸入禁止になりましたが、当店の象牙は、現在日本国内で流通しているものと一時的解禁された際の合法的な印材です。芯に近い高級品です。象牙の高級品の彫刻は一級彫刻技能士仕上げになります
2022.02.11
落款印とは
落款印(らっかんいん)は書や日本画や南画などの作品完成に際し作者がその証明として捺印する印鑑を指します。
その中で「姓名印(氏名印)」のみで押印するときは「姓と名」の印、白文(文字部分を刻し押印時に文字が白く浮き出る印)を押印するのが落款印の基本です。 |
刻に当たり、印面全体の「篆刻」としての、そして「刻者感覚」としての布字=印面への配字等々の調整のため印稿=印字原稿の最後に「印」、「之印」の文字を追加刻することもあります。 |
「落款」は、「落成款識(らくせいかんし)」の略で、作品を作成した作家=刻者の署名・押印をあらわし、落款の要所(多くは作品左下部)に押印する「落款印」はその個所への「押印」を指します。 |
落款印には、主として「白印(白文)」「朱印(朱文)」の二印があり、押印が印一つのときは「白印」「朱印」どちらを押印しても可。 |
落款印素材の多くは中国産の自然石で「印材」と表現されます。 |
落款印を含み篆刻の印は、中国古字「篆書体」が主として用いられ、そして「篆書体」にはいろいろな基本字形≒字体があります。 |
付字 : 作品製作にかかる刻者感性により印面に配置される「文字」のバランス等々をまとめる作業を言い、これら全体を「印稿」と言います。 |
「かな」や「カタカナ」ではなく漢字であっても字体の中には「篆書体」が存在しない文字もあります。 |
2022.01.28
花押その④
■花押の種類
江戸中期の故実家、伊藤貞丈(さだたけ)は、自著の『押字考』において、花押を 次の5種類に分類している。後世の研究者もおおむねこの分類を踏襲している。 ●草名体(そうみょうたい、そうなたい) 草書体を崩したもの。 草名体 北条早雲 ●二合体(にごうたい) 二合体 実名二字の部分(偏や旁など)を組み合わせて図案化したもの。 ●一字体(いちじたい) 運 慶 実名のうち一字だけを図案化したもの。 一字体 ●別用体(べつようたい) 伊達政宗 明朝体 文字ではなく、絵などを図案化したもの。 毛利元就 ●明朝体(みんちょうたい) 別様体 上下に平行した横線二本を書き、中間に図案を入れたような形体のもの。 ここでいう「明朝体」とは、文字書体(フォント)ではなく、”明王朝の様式”という意。 徳川吉宗 【註】 北条早雲=「九朗」の草書体を崩したもの/運慶=「運」のしんにゅうと「慶」の旁を組み合わせたもの/毛利元就=「就」1 字を図案化/ 伊達政宗=セキレイを図案化 五種類の分類の他に「公家様・武家様」と「禅僧様」とに分類する方法もある。 公家様 ●公家様(くげよう) 後鳥羽上皇 平清盛 貴族の花押の様式。 花押は実名(姓名)を自署する代わりのものであるため、 実名の文字を花押化している。 ●武家様(ぶけよう) 豊臣秀吉 武家様 鎌倉時代以降、武士特有の形状と署名方法によるもの。 武田信玄 実名とは無関係ない文字を花押化したり、 実名と花押を併記したりする特徴がある。 ●禅僧様(ぜんそうよう) 一山一寧 鎌倉期に中国から来日した禅僧が用いた様式。 直線や丸などで形象化され、 沢庵宗彭(沢庵禅師) 字というよりも符号に近いものが多い。 禅僧様 【註】 一山一寧=「一・口」は諡号(しごう)の「一山国師」を表す。国を口で略記/沢庵宗彭(たくあんそうほう)=「宗彭」の下の図案は法具の「払子(ほっす)」。タクアン漬けを考案した